瀬戸内スタディツアー2024 実施報告「島とアートを巡る冒険の3日間」
~島の歴史をみつめる旅 豊島編~
瀬戸内スタディツアーは、瀬戸内の島々を中高校生が巡る3日間。瀬戸内国際芸術祭サポーターの「こえび隊」が犬島・直島・豊島をナビゲート。学校も年齢も違う子どもたちがチームになり、島を歩きアートに触れる。今年度のツアーは、子どもたち一人一人の感性に委ね、既知のゴールは設定しない。夏の暑い日、船に乗り島に渡る。仲間ができ、アートに向かう。「島」と「アート」が子どもの心にどんなものを創造させたのか。(取材・レポート 松原龍之)

瀬戸内スタディツアー 3日目 豊島〜2024年8月22日〜
旅の始まりに 〜豊島の豊かさ〜
8月も後半に差し掛かってきたが、この日も容赦無く降り注ぐ太陽があった。今日は豊島に渡る。瀬戸内スタディツアーも最終回。連続で参加する人も数名いて、顔がわかる人もいた。これまでの犬島、直島に比べて、豊島は初めて渡る人が多いようだった。豊島はアートの島でもあるけど、産業廃棄物の事件があった島。さぁ、僕たちは何を目の当たりにするのか。

宇野港から出発したチャーター船は豊島に向かう。豊島は、直島と小豆島の間にある。人口は700人くらい。大きさは周囲約18キロで標高300メートルを超える山がある。「豊かな島」と書く「てしま」は、水が豊富な島。普段、蛇口をひねれば当たり前に出てくる水だけど、海に囲まれた島という環境では、真水は貴重なものであることに気付く。水があるから、水田で稲を作れる。レモンやミカンなど果実を作られる。牛も飼われているし、海からは魚や海苔が採れる。島の中だけで生きられる豊かさが豊島にはあった。島は誰のものだろう。島は、人が住む前から存在し、島のために島はある。そこに人が住まわせてもらっているだけなんだな。

船が到着したのは、家浦港。小さな港にマイクロバスが待ってくれていた。港の近くには集落があるが、バスを少し走らせれば、農地になり、道は細くなっていく。徐々に坂道に変わり、舗装はなくなった。時々、バスは激しく揺れる。生い茂った木々の間をどんどん進んでいく。

バスが止まった。「立ち入り禁止」と書かれた看板が付けられたゲートが見える。ゲートを開け、禁止区域に入っていく。今日は、豊島の産業廃棄物処理地についてご案内くださる石井亨さんが一緒。普段は踏み入れられない場所。バスの中に緊張感が漂う。ここで何があったのか。まだこの時は、向き合う覚悟を持っていなかった。
豊かな島の事件 〜島は誰のもの?〜

マイクロバスは見晴らしの良い小高い場所に止められた。右手には何かで削られたような跡のある崖があり、左手側には海が見える。平らに整地された場所には、人工的に作られた四角い池がある。石井さんに説明されるまで、ここが何なのか想像できなかった。優しい口調の石井さんの表情が一瞬、厳しくなった。「豊島事件」の話をしてくれた。目の前に広がるただの広い空き地で起こっていることを。
「豊島事件」とは、1975年から16年間、豊島総合観光開発という会社が産業廃棄物を買ってきて、ここに不法投棄をした。1990年には兵庫県警が摘発。ここには、高さ18メートル、約5階建てくらいの高さまで産業廃棄物が積み上がっていた。重量は約93万トン。東京ドーム5個分の広さと言われても、やっぱり想像がつかない。ここに見える視界の全てがゴミだったということだ。

当時、産業廃棄物業者が事務所として使っていたというプレファブ小屋は、「豊島こころ資料館」として、「豊島事件」のこれまでを保管してある。壁一面に貼り付けられた真っ黒なゴミ。ここで不法投棄され、燃やされたシュレッダーダスト。このゴミのほとんどは自動車だという。当時はたくさん自動車を作っていた。そして捨てた。どんどん作る時代、おそらく捨てるところまではあまり考えられていなかった。許可を取り、合法としてゴミを捨て続けていたことに心を傷める。

「豊島事件」は産業廃棄物を不法投棄した一人の悪い奴の話ではない。許可を出した香川県知事に島民は、訴える。関西方面に出荷していたオレンジは一瞬で買い手がいなくなったと石井さんはいう。業者のやり方は激化し、騒音や粉塵、野焼きの黒い煙。喘息の症状が出始める。ここは豊かな島ではなくなっていったという。
石井さんは、この事件で島民は3度苦しめられたと話してくれた。産業廃棄物を捨てた業者によって、島民の生活、人生を脅かされた。島の人たちは立ち上がり、島を守ために声を上げた。裁判で勝訴したとしても、損害賠償を求めることができても、島をきれいにしてもらうことはできない。お金が欲しいわけじゃない、きれいにして欲しいという訴えは届かない。この様子を見た人からは、お金欲しさに訴訟を起こしていると誤解される。僕たちは、話を聞くだけで心が苦しくなる。今は空っぽのただの空き地で、そんなことがあったと向き合うことができずにいた。

石井さんの話は続く。この事件は終わっていない。産業廃棄物は隣の直島に運ばれ、ダイオキシンが出ないように三菱マテリアルの製錬所で1300度の熱で溶かすことになった。これで終わりでもない。土壌に染み出した汚染物質が、地下水から海に流れ出ないように、海との間に44メートルの遮断壁を設置した。
現在は、遮断壁も撤去され、自然浄化ということになっている。四角い池は汚染濃度を測るためのもの。雨が降り、少しずつ薄まっていくのを待つ。どれくらい経てば、終わるのか。62年かかるとも言われているそうだ。
石井さんは繰り返す。この事件は終わっていない。子どもや孫の世代まで、豊かな島だった豊島は戻ってこない。訴訟を起こし闘った島民の数も少なくなった。忘れてはいけない、島はまだ戻っていないことを。怒りと悲しみの入り混じった表情で僕たちの目を見て話してくれた。
資料館には年表や写真、当時使った旗やはちまき。知らないことばかりだったし、石井さんに聞かなければ、知らずに終わってしまったかもしれない事実。島は誰のものだろう。現在、住む人のものでもあるし、未来に暮らす人たちのものでもあるのだと教えてくれた。情報量の多さに押しつぶされそうになったが、向き合うことの大切さを感じた。


言葉にならない思いを抱え、バスに乗り込む。立ち入り禁止のゲートを超えて、急にお腹が空いてきた。次は昼食だ。築100年の空き家を改装してレストランがある、「島キッチン」。建物の中央には大きなキッチンがあり、島のお母さんたちが腕を振るう日もあるという。月に一度、島の人もいれば、観光客もいる誕生日会を開いているらしい。穏やかな空気の漂う島キッチンで、お弁当をいただく。一品一品に島の豊かさを感じながら、お腹を満たしていく。

生命の水〜ここから全てが始まった〜
豊島の中心はどこにあるのだろう。この島の豊かさの源が水であるとすれば、湧き水が出る場所はこの島の中心ということになる。「唐櫃(からと)の清水」へ島キッチンから歩く。1日に湧き出てくる水の量は約40トン。昔は、ここで洗濯をしていたとか。洗濯をしながら、いろんな話をしたのだろうな。

水の流れ出る音を聞きながら、アートに触れる。円形の鉄をつなぎ合わせ空を切り取るかのような円を描く。円形は水滴のようにも見える。触ってみるとひんやり冷たく、寝転がって下からのぞいて見たくもなった。これが何なのかはわからないけど、この場所にとっても必要なもののように感じた。


アートと島〜身を委ねると豊島を感じる〜
バスは坂を下っていく。目の前に広がるのは青の世界。空と海に満たされていく。カーブを曲がれば豊島美術館が見えてくる。宇宙船のようでもある滑らかな曲線の建物に、細い一本の通路が伸びていく。靴を脱いで中に入れば、広い空間が広がっている。中なのか外なのか、天井には、大きな穴が空いている。中は涼しく、ゆったりとした包容力があり、とっても気持ちがいい。身体の熱をゆっくりとゆっくりと冷ましてくれる。
僕は、自然と寝そべりたくなった。地球ではない違う惑星に来たようでもあった。床のあちこちには、地面を移動する水滴をみつける。小さな水滴は磁石で引き寄せられたかのように別の水滴とくっつく。大きな水滴に吸収されて、少しずつ移動していく。床に傾斜があるのかな。水滴が意思を持っているのかな。空間に身を委ねる美術館。空間と時間がアートなのか。
天井に開いた大きな穴から見える空は、少しずつ変わっていく。照らす陽も変われば、落とす影も変わる。時間が過ぎていくのを楽しむことができる。じっとしていられる。過ぎていく時間が心地よい。

島キッチンに戻ってきた。今日一日、僕たちが豊島で見てきたものは何だったのだろう?島は誰のものなのか。産業廃棄物業者のものではないことは確かだ。香川県や県知事のものでもない。島民一人一人のものでもあり、未来の人のものでもある。島は島として生きていて、誰のものでもないのかもしれない。

豊島に来て、豊かさってなんだろうという問いが生まれた。失わないと気付かなかった人間の愚かさも感じたけど、僕らも同じ人間だ。豊島美術館は、ただここにある豊かさを教えてくれた。この島が豊かであり続けることを僕たちは望む。