財団と人

#033 鑓屋翔子さん

喫茶さざなみハウス店主・一般社団法人ひばりエンタテインメント代表

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  • 2025.03.03

瀬戸内市の国立療養所長島愛生園の中にあるさざなみハウス。2019年7月のオープンから3年。入所者も休憩する場であり、入所者にまつわる様々な持ち物も集まってくるこの場所では、生活空間としての愛生園に触れることができます。そんなさざなみハウスで店長を務める鑓屋翔子さんにお話を伺ってきました。(聞き手:森分志学)

非連続なキャリアが今につながる

森分:まず、鑓屋さんのこれまでについて教えてください。

鑓屋:実家が県北で、小学生のときに大阪から移住して、それから美咲町で暮らしていました。大学は、和歌山大学で地理学を専攻していましたが、正直あまり勉強していなくて恥ずかしいくらいです。卒業後は岡山に戻ってきて、引きこもり生活をしていました。

森分:岡山に戻ってからはどんなことをされていたんですか?

鑓屋:正直、最初の仕事は自分に合っていなくて。仕事場に出入りしていた方の縁でNPOの活動を1年くらいしました。その後、ひばりテラスで働きました。NPOで中間支援の仕事をしていると、自分がプレイヤーとしてなにもできない立場がもどかしくて。なので、自分がプレイヤーになる仕事をしようと思ったんです。難しいことを考えるのは苦手なので、もっとシンプルに動きたいという気持ちがありました。

森分:ひばりテラスのどんな活動に惹かれたのでしょうか?

鑓屋:「商店街で何かやるよ」と聞いて、楽しそうだなと思ったんです。地元にいた頃、週末におばあちゃんたちが昔の豆腐屋さんを復活させて揚げ屋さんをやっていたんです。そのお店で定食を出したりするのを手伝った経験が楽しくて、そんな人々の営みに興味がありました。

おばちゃんたちの熱量がすごかったんですよ。田舎って、あまり面白いことがないとか、刺激が少ないとか、同年代がいないとか、そういうイメージがあったんです。でも、あの頃は遊びに行くとしたら都市部に行くのが普通でしたけど、そういう刺激をおばちゃんたちが持っていて、何か楽しかったんですよね。それで、自分が楽しいと思えるようなことを探していました。そんな流れでひばりテラスに関わるようになったんですけど、うまくいかないことも多かったです。ひばりテラスは2年弱で閉業しました。

森分:その後はどのように?

鑓屋:ひばりテラスを辞めて、自分の小さな店をやりたいと思ったんです。自分の責任で、ある程度小さな規模で生活を作りたいなと。その頃、とある方の市議会議員選挙を手伝っていて、3か月くらい選挙活動に関わりました。

森分:選挙活動は、いろいろな挑戦やご苦労がありそうですね。

鑓屋:そうなんです。そんな中、同席していた会議で、この場所(現在のさざなみハウスのスペース)をどうするかという話が出てきました。バスの待合所や休憩できる場所を作ろうという話になったんです。瀬戸内市が世界遺産登録に向けてNPOを立ち上げていて、当時の愛生園の事務部長の方から「喫茶店を作ろう」と話を持ちかけてくれて、それがきっかけです。

森分:なぜ鑓屋さんに白羽の矢が?

鑓屋:私がひばりテラスにいた頃、運営団体が長島で瀬戸内市と一緒に長島アンサンブルというイベントを開催したこともあったので、「喫茶店をやるなら誰がやる?」という話で、自然と私がやるムードになったんです。

様々な人たちがさざなみハウスを訪れる

森分:喫茶店ができたのはいつですか?

鑓屋:2019年の7月です。窓からの景色が素晴らしかったんです。昔は偉い方しか見られない景色だったらしいんですけど、そういう場所を活かしたいと思いました。

森分:ここは元々何だったんですか?

鑓屋:ここは事務所でした。福祉課があって、愛生園の入所者の方々を支援するソーシャルワーカーなどの職員さんがいたんです。入所者の中には、家族と離れて暮らしていたり、縁を切っている方も多くて、そういう方々の生活や手続きのサポートをしていたようです。家族との面会に同行するようなこともされているようです。この窓口でいろいろな人とのやり取りがあったようです。

今は建物が解体されてしまったんですが、向かいには病棟も3つありました。現在の診療棟には病棟や介護士さんと看護師さんがいる居室もあって、高齢の入所者の方が段階に応じて利用する形です。普通に生活している方もいれば、支援を受けながら暮らしている方、さらに入院が必要な方もいます。高齢化の影響もあって、機能がまとめられてきています。昔はここも人通りが多く賑わっていたそうですが、今は静かになりました。

森分:さざなみハウスに来る方はどんな人たちですか?

鑓屋:観光地ではないので、最初の頃は入所者の方が様子を見に来ることが多かったです。車に乗れなくなって、近場でコーヒーを飲みに来るような方々もいらっしゃいました。また、長年交流があった外部の方が「こんな場所ができたんだ」と気づいて来てくれるようになりました。その後、新聞やテレビで取り上げられるようになって、一般のカフェ利用者も増えました。面白いのは、昔ここに住んでいた方や、職員の家族だった方が「懐かしい」と訪れることがある点ですね。

入所者さんの話を聞きに来る人もいれば、「ここって何の遺跡ですか?」なんて聞いてくる人もいます。まだ「ここには病気の人がいるんじゃないか」と思っている人もいますが、ハンセン病は完治していて、後遺症のために療養している方々がいるだけなんです。知らない方が多いので、ここをきっかけに知ってもらえるようになっています。

森分:運営しているのはどこですか?

鑓屋:一般社団法人ひばりエンタテインメントで、現在は私が代表をしています。ここを運営しながら、2020年12月から地域おこし協力隊としても活動しています。

歴史からでは見えない生活の手触り

森分:抽象的な問いですが、さざなみハウスの役割って何ですか?

鑓屋:「隙間」を埋めるような場所だと思っています。愛生園の「余白」みたいな存在、と新聞では答えたんですが、私もここに関わるまでは、ハンセン病療養所というと「弱者」や「可哀想な人たち」というイメージが強かったんです。家族から引き離され、子どもも産めないという話ばかり聞いていたので、最初は身構えていました。でも、実際にここでお茶を出したり話したりしてみると、皆さん普通のおじいちゃんおばあちゃんで、気さくでフラットな関係性なんです。

昔の園長がお父さんのような存在だった時代があって、その下で皆さんがファミリーのように暮らしていたという影響もあるのかもしれません。今は、冗談を言い合ったり、友達みたいな関係で、とても面白いんです。もし私が見学者として「歴史を正しく学ぶ場」としてここに入っていたら、ハンセン病の大変さだけが強く印象に残っていたと思います。でも、実際には「今日は天気がいいですね」といった何気ない会話や、昔の釣りの話など、生活の場としての一面を知ることができたのが大きかったですね。

森分:生活の中で自然に歴史を知るということですか?

鑓屋:そうです。入所者の方がお茶を飲みながら話してくれたりするんです。何気ない会話から、その人の背景が見えてきます。学んで知る歴史も大切ですが、それだけでは見えない生活の手触り感があるんです。

森分:手触り感というのは具体的にどういうものですか?

鑓屋:説明されるだけではない、生活そのものですね。お茶を飲む場があることで、リラックスしながら自然と「どんな場所なんだろう」と知ることができる、そんな交差点のような場所だと思います。

色んな記憶とモノが集まってくる

森分:他にも、さざなみハウスで取り組んでいることはありますか?

鑓屋:入所者の方の遺品を後世のために残している人たちがいて、そうした人たちが持ってきたものや、私が「こういうものを集めています」と話したことがきっかけで、いろいろな資料や物品が集まるようになりました。たとえば、昔の生活を知る機関紙『愛生』や俳句などの文芸作品が掲載されていて読んでいると当時の暮らしがみえてくるんです。そのうちに、「この書き手の文章が面白い」とか、推しの書き手ができたりして、それがとても楽しいんです。

本を読むのが苦手な人でも、好きなフレーズを拾って勝手に詩を作って遊んでみたりしています。そうした活動を、漫画家のあさののいさんが愛生園でのエピソードとして漫画にしてくれました。これを「愛生を読む会」として今も定期的にやっています。

森分:それはここだけではなく、出張して行うこともあるんですか?

鑓屋:はい、特にコロナでお店が営業できなかったときなどは出張して活動しました。また、昔の書物や道具も集まってきます。たとえば、目がみえない人たちで結成されたハーモニカバンド青い鳥楽団の大阪公演のパンフレットを持ってきてくれた方は、それを企画したかつての大学生で、今はおじいちゃんになっている方です。こうした物品には、それぞれエピソードがあるんです。

たとえば、手が不自由な人が使っていたカンナや、熱さを感じないために二重になっている湯呑みなど、生活の中の工夫が見えるものもあります。昔の入所者が飼っていた犬の写真を見て「これは誰の犬だろう?」と話していたら、別の人が「あの人にもらった犬だ」と教えてくれることもあります。こういったものを見ていると、「国のハンセン病政策の誤り」という歴史的な背景だけではなく、隔離されたことで守られたり生活を自らの手でつくってきたという側面も感じることができるんです。ここは一つの社会として形成されていて、それぞれの暮らしがあったことが伝わってきます。

森分:それを伝えることが大切ですね。

鑓屋:そうですね。エピソードには良い面も悪い面もあって、それをそのまま伝えたいと思っています。そうした話を聞いて、「なるほど」と納得する瞬間が面白いんです。

森分:そのような取り組みにはどんな課題がありますか?

鑓屋:入所者の方の中には、自分の姿や名前を出したくない人もいます。家族に知られたくないという事情があるので、郵便も本名ではなく園内用の名前で届くことがあります。そうした方々に配慮しながら話を聞いています。

大局的な歴史と個人の暮らしの差分

森分:愛生を読む会や動画を見た方の反応はどうですか?

鑓屋:とても興味を持ってくれる方が多いです。「知らなかった」「想像もしなかった」と言われることが多くて、入所者の方々の日常や歴史に触れて新しい視点を得たという声をよく聞きます。療養所の暮らしを「悲しいもの」と思っていた人が、生活の楽しい側面にふれてはっとするようなこともあります。それが、この活動を続ける励みになっています。

愛生の文章を読んでみると、思いのほかロマンチックな内容や昔の恋愛の話が出てきたりして、笑えるところもあるんです。「あ、この人、私みたいにおっちょこちょいだな」と思ったり、親しみを感じることもあります。みんなそれぞれ楽しんで読んでいるようです。一方で、頭の片隅には療養所での暮らしや歴史もあるので、そういったことも考えながら読んでいる感じです。

私自身、長島を知りませんでした。大人になって初めて訪れて、「こんな場所が世の中にあるんだ」と驚きました。

森分:語り部の方などから聞く「大局的な歴史」と、日常生活にある「個人の暮らし」の違いがありますね。

鑓屋:その違いがとても面白いです。高校生が学校の活動などで長島を訪れて、入所者の方から話を聞くこともありますそのとき入所者の方は「伝える役割」を意識してしっかり語ります。でも、後で喫茶店に来ると「いやあ、若い子に話すのは疲れるよ」とか、普通のおじさんみたいに愚痴を言ったりするんです。公の場では伝えるべきことをしっかり話して、普段の生活ではリラックスした会話を楽しむ。そんな二つの顔を持っているのが、人間らしくて魅力的だなと感じます。

切れ端のようなものでも、それは資料

森分:ここに物を持ってくる人たちは、どういう気持ちで持ってきているんでしょうか?

鑓屋:やっぱり「捨ててしまうとそれまでだ」という思いがあるのかもしれません。歴史館の展示品も、元々は入所者の方が「後世に残すために必要だ」と集めていたものなんです。歴史館ができる前から集めていて、それを歴史館に展示する形になりました。その取り組みを、職員さんが引き継いで、学芸員の勉強をしながら整理していきました。

森分:『愛生』の編集部も入所者の方たちで作っていたんですか?

鑓屋:そうです。双見美智子さんという方が編集人を長く務めていました。この方は入所者で、ずっと資料を集めて整理していました。園がゴミとして処分しようとしたものを仲間と一緒に軽トラで運び出して、「これは資料だ」と言って大事に保管していたんです。切れ端のようなものでも丁寧にファイリングして、分類していました。そんな資料を彼女たちは「へそくり」と呼んでいて、誰かが尋ねてくると「そのへそくりならここにあるよ」とすぐに探し出せるようにしていたそうです。

森分:ここで読むと、歴史館とはまた違った感覚がありますね。ゆったりとした気持ちで読めるというか。

鑓屋:そうですよね。歴史館だとどうしても時間を気にしたり、ちょっとかしこまった気持ちになりますけど、ここだとのんびり景色を見ながら読めるので、リラックスできます。

森分:そういう雰囲気がいいですね。

鑓屋:はい。みんな本当に、「これガラクタかな?」と思うようなものでも、大事に読んだり見たりしています。ここに来る人たちは、「これなんだろう?」と思うこともあるみたいです。キティちゃんの時計とか、昔の神社で売っていたようなキーホルダーとか、ただの生活用品みたいなものもたくさんありますよ。

森分:当時使っていたキッチン用品とかも面白いですよね。

鑓屋:そうなんです。こうして置いておくと持ってきた人も喜んでくれるし、コミュニケーションのきっかけにもなっています。

2030年の100周年に向けて

森分:最後に、今後のさざなみハウスの展望をあれば教えてください。

鑓屋:2030年でこの療養所は100周年を迎えます。その頃には入所者の方がほとんどいなくなるのではないかと思っています。だからこそ、その「最後の人たち」を見届けたいという気持ちがあります。ここを始めて3年ですが、その間に常連さんだった入所者の方が4人亡くなりました。とても寂しいですが、その後にまた新しい入所者の方がふらっと訪れるんです。人は変わっていくけれど、途切れることなく繋がっているのが不思議で、ありがたいです。

私としては、そういう方々の話を少しでも聞いて記録に残したり、外部の人たちと繋ぐ役割を果たしたいです。その中で私自身が何を感じるのか、今はわかりませんが、その時々で共有し、伝えていきたいと思っています。

森分:さざなみハウスのアーカイブ性って高いですね。同時に、責任の重さも感じます。

鑓屋:継承の仕方は大きな課題です。園や歴史館などでも考えられていますが、それだけではない部分もあると思います。当事者だけが考えるべき問題ではなくて、私たちも関わるべきだと思うんです。

「継承」という言葉はハードルが高いですが、私が語れないことでも、その場で聞いた何かを自分の中に持ち帰り、いつか別の場面で思い出すことがあるかもしれません。そういうふうに、「自分とは違う存在」を感じ、受け止めることが継承の本質なのかなと思っています。それが結果的に、自分自身を深めていくきっかけになるんじゃないかと。

継承というよりは、過渡期に触れた人が何かを感じて持ち帰ってくれるような、そんな場になればいいなと思っています。

森分:なるほど。この「過渡期」というタイミングをどう共有し、伝えていくかが大事なんですね。

鑓屋:そうです。私が関わるようになったのは、まさにその過渡期なので、それ以前のことは知らないことも多いですが、この場を通じていろんな人と共有できることがあると思います。

森分:すごく面白いですね。ありがとうございました。

(取材日:2022/08/03)