財団と人

♯040 角ひろみさん

劇作家・演出家

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  • 2025.02.17

角ひろみさんは20歳のときに関西で劇団を立ち上げ、10年間の活動の後、結婚を機に岡山に移住しました。縁あって岡山でも劇作家の活動を続け、2015年に 「第16回岡山芸術文化賞」準グランプリを受賞。最近では、朗読劇の演出や高校生の戯曲創作などにも挑戦しています。劇作家・演出家の角さんから見える、劇の世界についてお伺いました。(聞き手:森分志学)

一度は諦めた演劇の世界に舞い戻る

森分:岡山にはどういう経緯でいらっしゃったのでしょうか?

角:私は20歳のときに関西で劇団を立ち上げたんです。演劇科の高校を卒業後、18歳から劇団で勉強し、20歳になったときに地元に戻って関西で劇団を旗揚げして、10年間活動しました。

30歳になる頃、結婚を考えるようになりました。でも、演劇だけでは生活できないっていうタイミングで、劇団もその頃に解散したので、「(夫の)地元に帰ったら?」と話になり、岡山に来ました。

森分:演劇を完全に断ち切るつもりだったんですね。

角:私には演劇で食べていけるほどの力はないと思ったんです。それまで賞もいただいていたし、仕事も少しはあったので、全くダメってわけじゃなかったのですが、「子育てしたい」という気持ちが出てきたんです。

演劇の経験からディレクションができると評価してもらい、デザイン会社に拾ってもらえました。

森分:演劇の仕事は辞められたんですか?

角:岡山に来るときに、すべてを一度やめようと決めていたんです。でもやっぱり忘れられなくて、せめて最後にもう一作だけ書こうと思い、近松門左衛門賞に応募しました。

近松賞に応募した作品は、登場人物も少なくて、地味な作品でした。それまでのように「お客さんが喜ぶにはどうすればいいか」を考えながら書いたものではなく、全然違う方向性で書いたんです。結果的にそれが評価されて近松賞をいただきました。もしその賞がなければ、私は岡山でデザイン会社の仕事だけをしていたと思います。

森分:それでデザイン会社を辞めるんですね。

角:受賞作品の上演があるので、その稽古や打ち合わせに時間をとらないといけない。賞をいただいた以上、責任を果たさないといけないのに、稽古に何回も行けないし、上演にも十分に関われない。授賞式すらまともに参加できない状況で、どうしようと思っていました。

森分:そうしてまた作家に戻っていくんですね。

角:近松賞の受賞と同時に、デザイン会社でずっと流れていた地元の岡山のラジオもきっかけになりました。そのラジオで、有名な劇作家を招聘して作品を作っている方がいらっしゃると知りました。後にご挨拶に伺うのですが、関西での私の活動や作品をご存知で、そこから作家や演出家として少しずつお仕事をいただくようになりました。その作品が賞をいただいたりして、さらに新しいお仕事にもつながりました。

少しずつ新しいフィールドに踏み出している感じで、関西や東京でも、これまでとは違う場所で活動するようになりました。

森分:熱い展開ですね。

角:岡山に来た頃は「もう演劇をやめよう」と思っていましたし、子どもが小さかったので、責任を持って何かをやり遂げるというのが本当に難しい状態でした。フリーの劇作家として活動するのは、劇団付きの観客を持たない分、非常に珍しいし大変なんです。

震災の渦中、何も感じなかった当事者として

森分:一番最初に受賞された作品は震災での経験をバックボーンにもつ作品でしたが、どういう思いで作られたのでしょう?

角:実は、演劇を始めて最初に書いた作品で受賞したんです。演劇科の高校を出て、卒業公演で初めて戯曲を書いたんですけど、そのときは劇作家を目指すという気持ちは全然なかったんです。

元々は俳優をやっていましたが、私が所属していた劇団には、台本を書きたいという意欲を持っている人はいらしたのですが、実際に形にするまでには様々なハードルがあったようで、台本がほとんどない状態でした。稽古に俳優は来るけど台本がないので、即興劇をやりながら内容を文字化していく感じでした。

森分:それは大変そうですね。

角:劇団を旗揚げしたのは、1995年の震災の前日でした。成人式の代わりに旗揚げ公演をして、翌朝、機材を返すタイミングで震災が起きました。私の家は尼崎市にあって、家財は倒れましたが大きな被害というほどではありませんでした。でも、知人が亡くなったり、避難をしたりしました。

震災から2年ほど経って、その頃のことを振り返ると、自分があまりにもぼーっとしていたというか、感情が麻痺していた気がします。震災をテーマにした作品が他府県からたくさん出ていて、それを観たとき、心を砕いてくださったのはわかるけれど、どこか納得できない部分もあったんです。震災の渦中にいた私自身が、何も感じなかったのかもしれないという思いがありました。

そんな中、劇作を担当していた劇団員が大学を卒業する頃、劇団には作家がいないという状況になり、「じゃあ私が書くしかないな」と思いました。自分たちの劇団で何を大事にしていたかを考えたときに、自分たちの視点で、自分たちの言葉を使うことを重視しました。関西弁で、女ばっかりの劇団でも、偉ぶらずに自分たちの感じたことを劇にする。そういう方針で書いた最初の作品が、評価をいただけたんです。

森分:具体的に、その作品で何を伝えたかったのでしょうか?

角:「あまり何も感じない」というのがテーマだったんです。他府県の人が震災をテーマにした作品を作ると、とても丁寧に痛みや追悼をダイレクトに描いて、「いい話」という感じになることが多いんですよね。でも私の作品は、震災から10年経った頃を舞台にしていて、同窓会に友達が帰ってくるという設定でした。

その主人公が、最初は何も感じられないかもしれない、というところから話が始まります。そして亡くなった友達が当然のように同窓会に現れる、という展開で進んでいくんです。その中で、主人公の中に実感が少しずつ立ち現れてくる、そういう物語でした。

森分:まさに当事者性そのものですね。

角:自分自身はあまり深刻な被害を受けなかったんです。ただ、周りではいろんなものが壊れていて、壊れすぎた光景を見すぎたせいか、何とも言えない感覚になっていました。無のような、ちょっとよくわからない感覚だったんです。そんな中から、自分たちがその状況をより体感できるように書きました。

倒壊の中で果たせなかったことがたくさんあったんだろうな、とよく思います。たとえば、知人が亡くなった話があって、その知人はお腹に赤ちゃんがいる状態で、上から落ちてきたもので命を奪われました。そんな話を知ると、やっぱり胸が痛みますね。

作品の中では、小学校6年生のときに震災を経験した子たちが10年後、22歳になって同窓会を開くところから話が始まります。震災のせいで合唱大会が中止になったとか、やれなかったことがいろいろあったな、というエピソードが出てくるんです。それを中心に話が進む内容でした。

森分:そこで初めて“失われていたこと”に気づくと。

角:ありきたりだけど、日常って大切だなと思います。「明日は合唱大会があるね」「あの子と仲良くできなかったね」とか、「また遊ぼうね」みたいな、本当に何でもない日々。そんな普通の日常が大切だなと感じたのが、私にとって一番印象的でした。まだ20歳くらいで人生経験も浅かったけど、そのとき一番直面したのがそういう日常の価値だったんです。

その価値観が最初の作品には描きやすかったのかもしれません。特別テーマにしようと思ったわけではないけど、日常の何気なさが自然に表れたのだと思います。

森分:「等身大の自分が放つメッセージ」は、その後も通底して持っていたのでしょうか?

角:もっていますね。男性作家が多い中で、男性が描く女性像って、良くも悪く物語性が強すぎることが多いですよね。でも、等身大の女性って、もっとかっこ悪さや普通っぽさがあると思うんです。そういう変わらない感じを書くことが、自分にとって大事だなと感じています。

シンデレラストーリーみたいな派手さではなく

森分:どこから発想して作品をつくられるんですか?

角:近松賞のときにガラッと変わったんです。その頃の私は、アキ・カウリスマキ監督の「敗者三部作」に影響を受けていました。監督は、輝いていない人やうまくいかない人を描いていて、自分もどこか敗者だと感じていたんです。

近松といえば、心中の展開が多いですよね。そこばかり注目されるけど、あとに残された側の人はあまり描かれない。そこで私は、家に残された旦那さんにスポットを当てたんです。

私自身、華々しい活躍はできませんでしたが、それも悪くない、ある種のロマンだなと感じていました。うまくいかないことや冴えないことには、面白さや切なさがあるように思います。近松賞以降、そういう部分をもっと拾い上げたいと思うようになりました。

普段作品を作るときも、シンデレラストーリーみたいな派手さではなく、身近にある「うまくいかないこと」や「冴えないこと」の中から、輝きを見つけたいと思っています。

森分:どんなことがポイントなんでしょう?

角:自分自身が感じている美やロマン、そして醜さや汚さを含めた「美」については、常に正直でいたいと思っています。

依頼されたものについても同じです。方丈記をテーマに依頼されたときも、最初はピンと来なかったんです。でも、自分なりに「これが劇的である」「人の切実さとはこういうものだ」と思える部分を見つけて、それを描けるように心がけました。ちょっと引いて見たときに感じる美しさを大切にして作品にしたいと思っています。

戯曲における音楽性と角さんのスタイル

森分:角さん自身のスタイルが確立されたタイミングはいつですか。

角:根本的には変わってないなとも思うんです。幼稚園から中学校まで、音楽ができる友達が作曲して、私は物語を担当して、二人で楽器や歌で演じるという遊びをしていました。中学ではミュージカルに関わり、高校で作った劇団でもオリジナルの作曲を取り入れてやってきました。音楽がベースになっている部分は大きいんです。

例えば、最初に作った賞をいただいた作品でも歌が1曲入っていましたし、近松賞の「蛍の光」のような会話劇であっても、最後に「蛍の光」を歌うようなシーンがあったり、テーマに音楽的な要素が自然と入ってくる。それに加えて、身体性もどこかで表現に繋がっていると思います。

森分:方丈記の作品でも音楽性がありますね。

角:あります。方丈記を題材にした作品では、人気バンドのファンクラブに入っているお母さんが洪水で流されて行方不明になってしまうも、その後もバンドの会報が家に届く、という話が出てきます。それをお父さんが手に取って「手に余るな」と感じる、そんなエピソードです。

母がいなくなってしまうとバンドは、お父さんの日常では何でもない。むしろくだらないと思えるものが、残されたことで変わった意味を持つ。作中で流れるバンドの曲は何とも言えない「大衆性」を象徴しているんです。今流れて、やがて消えていくようなものだけれど、残されたことで、別の価値が生まれる。

また、最後には某テーマパークの話も出てきます。それを書いたのは東日本大震災のずっと前ですが、電力を象徴するような話になっています。一方では洪水で家に電気が通らなくなっているのに、子どもたちは「東京に行きたい」「テーマパークに行きたい」と言う。そのコントラストで、洪水の被害を受けた家と、キラキラしたパレードが対比される場面が描かれます。

そういう音楽や日常の中にあるものを会話劇や朗読劇でも自然に取り入れるのが、自分のスタイルだと思います。

森分:それは音楽のどんな構造・要素を借りているんでしょうか?

角:私は元々リズムが好きで、戯曲に行き着いたのもそのせいなんです。音楽には楽譜や音符があるように、戯曲にも言葉のリズムがあって、その掛け合いが面白いと感じました。言葉のリズムを掛け合わせていくのが楽しくて、続けてきた感じです。戯曲は音楽のようなリズムがあって、自然に楽しめるものでした。普段の生活の中でも音やリズムに敏感で、今思えばそれが影響しているのかなと思います。
共感覚って知っていますか? ひとつの感覚に別の感覚が重なる現象なんですけど、私の場合、言葉と音に固有の色と数字がついて見えるんです。宮沢賢治も共感覚があったと言われています。共感覚がある人は、数字や色、音が結びついて見えることが多いそうで、それが今の自分の表現に繋がっているのかなと感じています。

森分:もう少し詳しく教えてください。

角:私が本を書くときは、まず言葉と会話のリズムを意識します。例えば、俳優を選ぶときも、声のベースラインや高さ、低さといった要素を強く感じます。それに、声の色合いのようなものも自分の中ではイメージがあります。

そうした複合的な感覚が自分の中で自然と混ざり合っているんだと思います。それが結果的に、自分の作品の特色として表れているのかなと思います。

より多くの人に演劇の世界に触れてもらえるように

森分:演劇を作る側としては、こう見てもらいたいということはあるのでしょうか?

角:「こう見てもらいたい」というのは全然ないです。ただ、まずは来てもらいたい、というのが一番ですね。そのために、来てもらえるようなプログラムを考えることが私たちの役割なんだろうなと思います。

森分:たくさんの人に見ていただきたいと思うのはなぜでしょう?

角:私は演劇やライブを含めた創作物って、人の癒しになるものだと思っています。それを多くの人に味わってほしいし、たくさんの人が見ればもっと楽しくなるし、そういう場や機会も増えていくと思います。多くの人が見てくれることで、やる人も増えるし、芸術が広がっていくきっかけにもなると思うんです。それは、芸術家としてではなく、一人の生活者として、人間として生きていく力になるんじゃないでしょうか。

森分:何か印象的なエピソードはありますか?

角:「劇場で出会う文学、朗読×音楽」(おかやまアーツフェスティバル主催)は、自分にとって特別なものでした。「おかやまアーツフェスティバル」が新しくなる際に、実行委員として声をかけていただいたのがきっかけでした。

おかやまアーツフェスティバルのプログラムを見たときに、演劇には資金がなかなか割いてもらえていないと感じました。私は実行委員の中でも少し浮いた存在で、周りは立場のある方ばかり。そんな中で自分にできることを考えたんです。「いきなり演劇を作るのは難しいけど、朗読なら可能性があるかも」と思いました。

森分:朗読ですか。

角:約10年間、三重県での朗読プログラムにアーティストとして参加していた経験がありました。また、豊岡演劇祭でも朗読の作品を発表していました。岡山は文学都市でもあり、朗読なら文学と演劇、音楽を組み合わせられるんじゃないかと思ったんです。会議でそのアイデアを話したら、「面白い」と言っていただき、プロジェクトが動き出しました。

こうして「劇場で出会う文学、朗読×音楽」というプログラムが生まれました。ゲストとしてお呼びした岡山出身の作家・小川洋子さんもとても喜んでくださり、観客からも好評でした。

劇中の作用の中に自分もいるという感覚

森分:演劇が届けたいものってなんだと思われますか。

角:今そこで行われていることを感じるって、映画や再現とは違いますよね。その場で人が実際にやっていることを、暗闇の中で感じながら見るというのが、やっぱりいいんじゃないかなと思うんです。「作用」を見るというか、その作用の中に自分もいるという感覚が、すごくいいなと感じます。

森分:なるほど。「見る」よりも「居る」という感じなんですね。

角:いい言葉だと思います。「見る」じゃなくて「居る」。

いい演劇というのは、その世界の中にいるような感覚を味わえるものだと思います。自分が作るときも、観る人にその中に入ってもらえるような体験をしてほしいと考えています。

森分:最後に角さんの今後の展望を教えてください。

角:「劇場で出会う文学」は長く続いていけばいいなと思っています。

昨年から「岡山劇作家会」という名前をつけて、小規模な劇作家フェスを始めました。岡山でできていなかったことが多い分、自分発信でも少しずつ取り組んでいこうと思っています。

東京や関西などでも作・演出家としての仕事が予定されています。何をしたいかといえば、結局は「作品を創りたい」という思いだけなんです。それが私の一心です。

(取材日:2024/11/7)