#039 大森静佳さん
歌人
高校時代に短歌と出会い、「毎日歌壇」への投稿を始めた大森静佳さん。大学在学中に「角川短歌賞」を受賞する快挙を成し遂げます。岡山県内では「高校生文芸道場おかやま」の短歌部門の講師を担当したり、今年は「岡山芸術文化賞グランプリ」を受賞。今後の活躍が大いに期待される大森さんに、短歌とは何かについてお伺いました。
あれよあれよと歌人の世界へ
森分:短歌に興味を持たれたのは高校時代だそうですね?
大森:そうなんです。先月、母校の岡山朝日高校で創立150周年記念イベントがあり、そこでもお話したんですけど。私が高校生だったときに、小川洋子さんが講演に来られて、自分は短歌を高校時代に作って新聞に投稿していたと話されていて。
もともと短歌や詩を書いていましたが、人に見せる発想はなかったので、小川さんのお話を聞いて、新聞に投稿してみました。その後、大学に入って本格的にサークルや短歌のグループに参加し始めました。
森分:高校時代の投書数はどれくらいだったんですか?
大森:山陽新聞と毎日新聞に投稿していて、だいたい毎週のペースでメール投稿していました。
森分:すごいですね。大学ではどういう活動をされたのですか?
大森:主には短歌会というサークルに入って活動していました。歌会で週に1回集まって、1人1首提出した歌を、作者名を隠したまま何首か読んで「この助詞の“の”がいい」とか、一音・一字について何時間も話すんです。それが面白くて。
森分:高校と大学とで作る歌は、何か違いがあったりするんですか?
大森:歌人の作品を読めば読むほど影響を受けたり、反対に「これはもう書かれてるから自分はやらなくていいや」となったりします。高校のときは、俵万智さんなど数人の作品しか知らなかったので、それを真似たような作風でした。でも、色々と読むうちに、自分の「書きたい」が固まっていきます。
森分:現代の歌人にとどまらず、古典まで遡って読むのでしょうか?
大森:古典の和歌も五七五七七の形をしていますが、現代短歌と呼ばれる明治以降のものとは別ジャンルくらい違います。私が読んでいたのは明治以降の歌人たちで、斎藤茂吉が一番好きですね。
森分:歌人という生業は、いわゆる作家さんみたいなものだと思っていいんですかね?
大森:そうですね。ただ、小説家の方と比べると、人に関わる仕事が多いです。カルチャーセンターや全国各地の短歌大会に出かけて交流しつつ、短歌の講評を喋ったり。書斎にこもって何か書くだけはありません。ほとんどの人は何か本業を持ちながら短歌の活動をしていますね。
森分:歌人になるって勇気がいる選択だったりしないんですか?
大森:自分の実感としては、歌人を職業にしようと考えたことはあまりないんです。短歌が好きで、短歌を作って、短歌に関わっていたら、いつの間にかこうなっていた。いわゆる仕事とはまたちょっと違うかもしれないですね、短歌や俳句の世界は。
大学2年生で新人賞受賞
森分:最初の歌集はどういう経緯で出されたんですか。
大森:大学2年生のときに、角川短歌賞で新人賞を受賞して、角川書店から出版のお話をいただきました。大学を卒業した頃に、大学4年間の短歌をまとめたのが初出版ですね。
ただ小説の世界と違って短歌や俳句は、まだ自費出版の文化がかなり根強いんです。あと、知り合いの歌人に出版した書を謹呈する文化があります。今は無くなりつつありますが。
森分:昨今の短歌ブームで、誰でもライトに歌をSNS上で詠うようになっていますが、大森さんはどう受け止めておられますか?
大森:私が短歌を始めた十数年前は本屋さんに行っても短歌の棚にほぼ歌集がなかったですね。でも今、短歌フェアをあちこちの書店でやっていますし、短歌の本が色んな人に届きやすくなっているという意味ではすごく嬉しいことかなって思っています。
短歌の新人賞で笹井宏之賞に関わっていますが、応募数がこれまで7年やってきて、倍近くなっているんですよ。
森分:大森さんはどこで仕事をされることが多いですか?
大森:出かけていることが多いです。自宅では仕事がなかなかはかどらないので、喫茶店にパソコンを持ち込んだり。短歌の世界は、作品を書くことと評論を書くことの両方を求められることが多くて、評論の調べもので図書館に行ったりもします。
森分:評論というのは?
大森:雑誌などでは特集が決まっていて、「これについて書いてください」「斎藤茂吉について書いてください」といった依頼があります。その場合、斎藤茂吉の短歌を調べ、テーマを決めて、短歌を二、三首引用しながら文章を書く、といった形式が多いです。
また、歌人に限らず、「短歌の中で自然がどう描かれてきたか」といったテーマの場合、さまざまな歌人の自然に関する短歌を引用し、それについて考察する形の文章もあります。
自分のモヤモヤが31文字で立ち現れる
森分:歌の作り方を知りたいんですけど、どういうときに歌を思いつくのでしょう?
大森:私は机に向かってではなく、外をフラフラ歩いて散歩してるときが一番浮かんできやすいです。そのまますぐ31文字になることもあれば、五七五だけ思いつくときもあったり。スマホに全部メモして、その後推敲して、一首の形にしていきます。
森分:すぐ31文字につながるっていうのは、どういう脳の構造になっているのですか?笑
大森:このリズム感は本当に慣れだと思います。逆に、勝手に五七五七七になりすぎるので、そこに抵抗感を出す方が難しい。あまりにも五七五七七にぴったりなっていくと、それはそれで作品として浅い感じになっちゃうので。
森分:むしろ、どう崩すかを考えているわけですね。
大森:そうですね。
森分:今、大森さんが感じている短歌の魅力には、大学生の頃の体験も影響しているのでしょうか?
大森:そうですね。一つは、短歌を通じて世代や環境が異なる人ともすぐに打ち解けて話せる楽しさがあります。短歌の話題をきっかけに懇親会などで交流が広がるのも魅力の一つです。
もう一つは、短歌が日記や手紙に似たプライベートな表現の場であることです。普段言えないことや、友達に話さないようなこと、さらには言ってはいけないとされるようなことまで自由に書ける楽しさがあります。日常生活で自分に課しているブレーキを外して表現できるところが、短歌の面白さだと感じます。
森分:なにか言いたいという衝動がある、ということですか?
大森:そうですね。言いたいことは、きっちり言語化されてあるわけじゃなくて、モヤモヤした状態である。そのモヤモヤを出すにあたって、短歌が適したサイズというか。
森分:なるほど。推敲していく過程は、その言葉が自分のモヤモヤを適切に言い表しているかどうかを確かめる作業でもあるわけですね。
大森:完全にそうですね。選んだ言葉は、普段の社会における言葉の使い方と違うものかもしれないです。意味や分かりやすさよりも、そのモヤモヤをどう生きたまま言語化し、短歌にするかということが優先されます。
森分:言葉の定義が読み手によって変わる可能性がありますよね。大森さんが特定の意味で使っている言葉を、読み手が別の意味で捉えることがあると思います。そのギャップについて、読み手にはどのように捉えてほしいと考えていますか?
大森:私が一首作ったとして、それを10人の人が読んだら10通りの解釈、読みがでてくると思います。作者としては、これが正解で読んで欲しいというのはないですね。どういうつもりで作ったかは自分が分かっていればそれで良くて、それとは違う形で他の人に響けばいいって感じですね。
森分:それはハイアートに近い感覚でもありますか?
大森:そうかもしれないですね。歌会も作者の意図は完全無視なんですよ。作者の地位が一番低くて、短歌のテキストが一番上。取りあげた一首が一番輝いて見える解釈をみんなで出し合い、話し合って構築していく場です。一応最後に作者名を発表しますが、作者からは特にコメントしないことが多いですね。
現代社会での短歌の役割とは
森分:歌集を読ませていただいて思ったのですが、全体の文字数は他の本に比べて圧倒的に少ないはずなのに、読むのにすごく時間がかかると感じました。一文字一文字をかみ砕き、想像しながら読まなければならず、良い意味で「大変さ」を感じました。
一方で、現代では「タイパ(タイムパフォーマンス)」など効率を重視する読み方が広がり、合理性を求める節も見られます。現代は短歌を読みづらい空気感もあるのではないかと考えたのですが、どう思われますか?
大森:小説のように1ページ目から最後までひと繋がりの読書とは違って、1ページ1ページ時間をかけて読む。それがタイパ重視の世界から逆行するんですけど、短歌や詩に惹かれている層には、タイパ的なものに疲れた、意味や効率から離れたところに何かよいものがあるんじゃないかと思っている人も結構いるように思いますね。
森分:あえて聞きますが、現代における短歌の役割って何でしょう?大森さんの主観で構いませんので、教えてもらいたいです。
大森:一つは、情報があふれて忙しい現代の中で、立ち止まることが短歌にはできると思います。ゆっくり時間が流れていて、言葉や助詞の一つ一つを味わえるような、そういう時間が必要な人もいる。
短歌は、意味ではなくて、音楽に近いリズムや言葉の流れを味わうものなので、意味にどうしても行きがちな現実世界から離れたところで、何か面白いものがあるという気づきをもたらしてくれます。
あと、自分にとって本当に大事だけど、日常会話の中では言えないことを受け止める器になってくれます。
森分:明確な意味を与えない方が、むしろ短歌としての意義があるんですね。
大森:私の作品ではそこまで多くないですけど、政治やフェミニズムも昨今の短歌で熱いテーマです。社会に向かってツッコミを入れて、強烈なメッセージ性ではなく、短歌のイメージや映像性を使った新しい形の短歌も出てきています。
既存の言葉の拡張可能性を問う
森分:大森さんの短歌のスタイルを教えてください。
大森:ざっくり分けると、自分の実人生に沿った形で毎日のことを読んでる人生派と、言葉や詩に寄っている言葉派があります。私はどちらかというと言葉派の方です。先ほどの具体的な政治への怒りを読むのは人生派で、シュールな幻想も交えて社会的な作品を読んでいる言葉派もいますね。
森分:言葉派は何を表現しているんでしょう?
大森:自分の中の感情や、世界の一つの見え方を言葉で再構築していく感じです。一般に詩と言われるイメージで、現代詩に近いと思います。人生派はどちらかというと近代的、伝統的な作風です。
森分:再構築という話でいくと、私の解釈では、たとえばカラスについて考えたとき、一般的には「黒い」「ネガティブ」といった負のイメージがありますよね。でも、それを「孤高に生きる存在」と捉えることもできると思うんです。そうしたカラスの意味を再構築し、言葉によって新しい視点を提示するようなものかな、と感じました。この解釈は少しズレていますか?
大森:人生派は一首よりも歌集になったときに、その人の生活や人生がばっちり見える。もともと短歌ってそうだったんですよね。写実的に外の世界をデッサンして、それと自分の実生活や人生を重ねてみる。自分が老いて松の枝がこんなふうに見えるとか。ただ最近は、自分の実人生をありのまま書くよりも、詩的なイメージの世界に寄ってる人が多いですかね。
森分:イメージって鍛えられるものなんでしょうか?
大森:そうですね。カラスならカラスで、まだ誰も書き表していないカラスの側面を書こうということに向かって、みんな努力をしていると思います。
森分:アートには、共通に定義されている現在の意味に対して新たな視点を提示し、世界を拡張する役割もあると思いますが、短歌にも似たようなイメージや近しさを感じました。
大森:上手い人はみんな、他の人の作品をよく読んでますね。歴史上の色んな有名歌人の歌集や短歌に限らず、同時代の色んなものを読んで摂取して、言葉の感覚を鍛えていると思います。あと、短歌はモヤモヤをその人の身体感覚で書き表すことを得意としているので、石やカラスを外からデッサンすることにとどまらず、自分の肌感覚をかけ合わせて、石やカラスのイメージを拡張していくことにもなります。
森分:そこに上達という概念はありますか?
大森:難しいですね。評価軸はバラバラなんですよね。上手い短歌=良い短歌でもない場合があったり。
森分:自分が摂取する世界で捉え方が変わってくるので、何を摂取するかを意識されてるのかと思います。最近だと、どのようなトピックスに意識を向けていますか?
大森:一番新しい歌集だと、源氏物語を現代風に54首の連作にすることをやっています。歴史や物語を今の言葉で1回捉え直し、自分の解釈を短歌として出力しています。
原文も読みつつ、それだけだと分からないところもあるので、角田光代さんの『新訳・源氏物語』や色んな関連本を読んだりして、自分の中でイメージを広げています。原文の古典的なイメージや言葉をそのまま短歌にしても意味はないので、現代に生きている私達の感覚とちょっと重なるところを引っ張り出してきて、今のモチーフもどんどん使っていく感じです。
今の世界にひそむ怖さを表す
森分:大森さんはどんなことを目指して書いていますか?
大森:私は最初の歌集のときに技巧派と言われていました。2冊目を出版するときは、技巧からどれだけ距離を取れるかを考えてやってきました。助詞のうまい使い方などはある程度学んでできることなんですけど、その技巧が目立ってしまうと、見えなくなるものがあるんです。なので、技巧を見えなくしてかつ、自分が見えている世界の少しでも新しい面が書けたらいいなと思ってやっています。
どちらかっていうと、世界を良いもの・美しいものとは書かないというか。世界って結構怖い場所でもあるじゃないですか。最近は、その怖さみたいなものを言葉で書きたいと思ってやっていますかね。
森分:僕は『カミーユ』を読んで怖さを感じました。ただ、その中にも「この詩は怖くないな」という歌があって、それが僕のお気に入りでした。3作目もそうした怖さを意識して書かれたのでしょうか?
大森:東日本大震災あたりから短歌の世界の雰囲気が変わったんです。美しい言葉で美しい桜の花を読むことがどこかのんきなことで、そんなことやっている場合じゃないと。私の1冊目は、東日本大震災の後に出版したんですが、そうした雰囲気に影響を受けているかもしれないです。
日本国内の災害や海外の戦争があると、亡くなる人が出るじゃないですか。そういうなかで、桜がただ綺麗でよかったみたいなことをなかなか書けないという自分の感覚もあります。むしろ、恐ろしい場所なんだっていうことや残酷なイメージの方が、自分が感じている世界とは合っている気がしてきています。
森分:一つの対象に意味を付与するとき、別世界のアナロジーを使っていることもありますか?
大森:カミーユは特にですけど、私が行った今のモンゴルの風景と、チンギス・ハンの時代の戦いとを重ねて読むような、現代の時間を行き来している作品もあります。
森分:先ほどの世界の捉え方ともつながるのですが、大森さんはその豊かな感性によって事象が再構成されている一方、実際には膨大な情報のリサーチによって成り立っているようにも感じました。それは実際そうなのでしょうか?
大森:そうですね。個人の感性やイメージの力はそこまで違わないと思います。カラスを見て何を思うかも、自分の頭だけで考えている限り、考えることが似てきてしまいます。なので、過去の作品や短歌論からヒントをもらっています。
言葉の可能性はまだまだある
森分:最後に、今後の展望について教えてください。
大森:自分が好む世界や好んで詠みたいものは結構はっきりとあるなかで歌集を3冊出して、また別のことをしないといけないとは思っています。
やっぱり本を出す以上は、前の歌集と違うものができないと出す意味があまりないのかなと。カミーユ・クローデルや源氏物語など、物語と短歌を絡めることはもうやったので、言葉自体のスリリングな組み合わせや、使ったことのない言葉の使い方に今は興味があります。
森分:言葉をうまく使える人自体が少ないのではないか、という感覚があります。私自身も言葉を扱うのが貧弱だなと思う一方で、それは言葉そのものに限界があるのかもしれないとも思っています。
彼らが言葉を使えないのではなく、まだ発見されていない新しい言葉や表現があるだけかもしれません。言葉の新しい使い方が発明されれば、これまでコミュニケーションが難しかった人たちも、何か新しい形でつながれるようになるのではないか、という感想を持ちました。
大森:短歌もこの30年ぐらいで口語化が進みました。それまでは現代のことでも「○○たりけり」のような文語の歌が多かったんですけど、俵万智さん以降、口語化が進んで、私より若い世代では若者言葉や略語を取り込んでいて、それも面白いなと思います。
(取材日:2024/8/16)