Two Babies
二人の赤ん坊
国吉や作品にまつわるコラムをA to Z形式で更新します。
二人の小さな子どもが描かれている。
左側の子どもはオレンジ色のワンピースを着て、手に白い小鳥のおもちゃを持っている。女の子の服装だが、顔は全然女の子っぽくない。
右側にはおむつを着けた赤ちゃんが座っている。この子も赤ちゃんらしくない硬い表情で、画面の外の何かを見ている。
二人とも顔や胴体は丸々としているのに、手や足は不自然に小さい。こんな小さな足で立っていられるのだろうか。
子どもたちの頭上には緑色の大きなベルと、赤と緑のリボンが見える。これには何か意味があるのだろうか?
・・・ほかの国吉康雄の絵と同様、これも「何が言いたいのか分からない」絵である。二人の子どもを目の前にして描いたにしてはあまりにも不自然だが、不安や不快な感じはしない。なぜかとても惹きつけられる絵で、ずっと見ていても飽きない。
1920年代前半、国吉康雄はこの絵の他にも小さな子どもをたびたび描いた。後年の手記に、彼はこう書いている。
「人は、赤ん坊は美しいと思っているが、私はそうではないと思ったし、だからこそ赤ん坊ばかり描いたのだ。」1
「美しいとは思わないものを描く」とはどういうことだろうか。なぜ、国吉はそんなことをしようと思ったのだろうか。子どもは無垢な存在だと言われるが実は醜いのだ、とでも言いたかったのだろうか?
だれもが「赤ちゃんは可愛い」と言う。その中で、国吉は赤ん坊を全然可愛くなく、しかしとても魅力的な絵を創りだした。
この絵には、「美しさ」も「醜さ」も描かれていない。そのような、現実の世界で人々が見たり感じたりしていることを映し出しているのではない。
人々がまったく自然に感じている「赤ちゃんって可愛い」という気持ちを引っくり返して「赤ちゃんが可愛いのではなく、自分の絵が魅力的なのだ」というステージで、国吉は勝負したかったのではないだろうか。
人間は何万年も前から絵を描いてきた。それは何のためだったのだろう。
目の前にいる人やものを写し取ったり、宗教的な祈りの気持ちをこめたり、昔からの物語を描いて伝えようとしたり、自分の心の中にある風景や感情を形にしてみたりして、人間は膨大な量の絵を産み出してきた。
そして20世紀、画家たちは「何かを伝えるための手段ではない」純粋な絵画とは何か、を考えるようになった。他のもののためではなく、絵そのものに意味があり存在している、それはどういうものだろうか?画家たちは試行錯誤をくりかえし、その目まぐるしい変化がそのまま20世紀のアートの潮流となった。
国吉康雄もまた、「何かを伝えるための手段ではない、絵そのものとして存在する」作品として、これを示したのではないだろうか。彼は具象的なものを描きながら、全く別の次元を見ていたのだ。
1 “East to West.” Magazine of Art, vol.33.no2 (February,1940)より。原文は英語(江原訳)
本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に展示中です。
更新日:2017.11.15
執筆者:江原久美子