国吉康雄 A to Z

Mother and Two Children

戦争ポスターの習作(母と二人の子ども)

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  • 2024.09.09

国吉や作品にまつわるコラムをA to Z形式で更新します。

1943年 | 鉛筆、紙 | 53.3cm×40.6cm | 福武コレクション蔵

軍服を着た子どもが、着物姿の女性の手をとり、右手が指さすほうへ行こうとうながしている。女性はそちらをじっと見ているが、膝を曲げて腰を引き、行きたくない様子である。もう一人の子どもが彼女に背負われているが、その子どもも軍服を着て羽根つきの軍帽をかぶり、手には旭日旗、つまり日本軍の旗を持っている。二人の子どもの顔は見えないが、女性の横顔はけわしく悲しそうな表情だ。

国吉康雄はこのような場面を実際に見たのだろうか。それとも何かの象徴としてイメージしたものを描いたのだろうか。

実際に見た場面だとすると、国吉が一時帰国したときのことだろう。国吉が帰国したのは1931(昭和6)年10月、その直前に満州事変が起こり、日本各地で兵士が出征していた。これは出征を見送っている家族なのかもしれない。子どもは兵士となる父親を勇ましくて誇らしいと思っているが、子どもたちの母(あるいは、高齢のようにも見えるので祖母とも言われる)は、夫の先行きと、残される自分たち家族の将来を案じ、悲観する表情を見せている。

あるいはこのようにも考えられる。この女性の着物は黒一色で、まるで喪服だ。彼女の夫(あるいは息子)はすでに戦死し、その遺骨を受け取るところなのかもしれない。子どもたちが儀礼的な服装なのはそのためだろう。子どもたちは無邪気だが、彼女は現実を受け入れがたく、足が前に進まない。

どのような状況だったのかはわからない。だが彼女の表情や体の動きを見ていると、彼女が戦争に対して抱いている悲しみ、辛さ、憎しみ、悔しさが伝わってくる。

国吉は、帰国から約10年後にこの絵を描いた。彼は日本で実際にこのような場面を見たのだろうか。しかし写実だとしても想像だとしても、ここに表されているのは、彼自身が強く感じた事実だろう−−−戦争が、兵士ではない女や子どもたちに対して、いかに過酷なことを強いるか、いかに辛い感情を起こさせるか、ということだ。

国吉康雄は1941年(昭和16)の日米開戦によって「適性外国人」という立場に置かれたが、他の多くの在米日本人とは異なり、日本には帰らなかった。若くして単身でアメリカに渡り、アメリカの自由と平等を重んじる理念の中で、周囲の人々に助けられ人生を切り開いてきた国吉は、アメリカに忠誠を誓い、アメリカの画家として活動を続けたのである。

当時、アメリカ合衆国の機関である戦争情報局(United States Office of War Information)は、日本との戦争の正当性を強調し、アメリカ人の戦意を高揚させるためのポスターを描くようアメリカ国内の画家に依頼した。国吉康雄もその仕事を引き受け、日本軍の残虐さを訴える下絵を何十枚も制作した。ここに挙げた作品もそのうちの一点だが、この絵に表されているのは日本への敵意というよりも、さらに普遍的な主張——戦争そのものに対する抗議、平和を願う気持ちである。

当然ながら、この絵は戦意高揚ポスターには採用されなかった。おそらく国吉自身もこの絵が採用されるとは思っていなかっただろう。それでもひとつの作品として完成させずにはいられなかった国吉の反戦への強い思いが伝わってくるようだ。

更新日:2017.08.16
執筆者:江原久美子