国吉康雄 A to Z

Sara Mazo Kuniyoshi

サラ・マゾ・クニヨシ

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  • 2024.08.06

国吉や作品にまつわるコラムをA to Z形式で更新します。

「サラ・クニヨシ(3)」1938年 | ヴィンテージ・ゼラチン・シルヴァープリント | 23.4cm×26.2cm | 撮影:国吉康雄 福武コレクション蔵

この女性は、国吉康雄の妻 サラである。彼女は、カメラをもつ国吉のほうを見て微笑んでいる。日常のスナップというより、少しかしこまったポートレイトという感じだが、表情はおだやかで、リラックスしている。

背後の壁にいくつか重なって映し出されている影は、彼女の内面を象徴しているようだ。サラはどんな人だったのだろう。優しくて、でも芯の強い人だったのではないか・・・。このように、見る人に想像させること、それこそが国吉康雄のたくらみだったのではないだろうか。この写真を見る人は、彼女の顔立ちだけではなく内面の美しさを思わずにはいられない。控えめな写真のようでいて、国吉は、妻がいかに魅力的な女性であるかを大いに主張している。

サラ・マゾは、1935年に国吉康雄と結婚した。サラが25歳、国吉が46歳のときである。夫がそうであったように、彼女もまた、20世紀のアメリカにおいて、自らの意志で選び取った人生を生きた。

1910年7月4日、アメリカ独立記念日にニューヨークで生まれたサラは、当時最先端だったモダン・ダンスのダンサーとして、またオフ・ブロードウェイの舞台女優として活動していた。1932年、公演先のウッドストックで演出家が売上を持ち逃げするという事件が起こり、急きょお金が必要となったため、舞台の背景を描いていた画家の紹介で国吉のモデルを務めたことが、サラと国吉との最初の出会いとなった。

結婚後、サラは舞台の仕事をやめ、1941年からはニューヨーク近代美術館(MoMA)でアシスタントとして働き始めた。戦争や、国吉の看病などにより何度か中断したものの、同館の作品登録部門や写真部門、絵画・彫刻部門で1975年まで働き続けた。後年、同館が彼女に対しておこなったインタビューでは、内部のスタッフとして見ていたMoMAの姿が生き生きと語られている。

退職後、サラは、自分に残された国吉の作品や資料を管理し、必要に応じて国吉に関する助言を行った。日本にも何度か訪れ、岡山の人々とも会っている。彼女をとおして国吉康雄を身近に感じた人も多いことだろう。彼女は、国吉がアメリカで評価された画家であることを常に言及しつつ、「日本においても評価が高まっていることは、二重にうれしいことです」と述べ、1990年の「国吉康雄美術館」(注1)開館にも協力した。このとき彼女が寄贈した国吉の遺品——イーゼルや机、画筆など——は、今も「福武コレクション」(注2)の重要な構成要素となっている。

サラ・マゾ・クニヨシは、多くの人々と交流を続け、2006年にニューヨークで亡くなった。いまはウッドストックのアーティスト墓地で国吉康雄とともに眠っている。

注1: 国吉康雄美術館
1990年、岡山市のベネッセコーポレーション(当時は福武書店)本社ビル内にオープンした美術館。
同社が所蔵していた国吉康雄作品および資料を展示・公開した。2003年、閉館。

注2: 福武コレクション
ベネッセコーポレーションが収集・所蔵していた国吉康雄の作品と資料は、2003年、福武總一郎によって一括購入の上、「福武コレクション」として岡山県立美術館に寄託された。絵画、版画、写真、遺品など計600点以上の規模で、国吉康雄のものとしては世界最大のコレクションのひとつ。

参考
The Museum of Modern Art Oral History Program, Interview with Sara Mazo, 18 November 1993
https://www.moma.org/momaorg/shared/pdfs/docs/learn/archives/transcript_mazo.pdf
サラ・メイゾ・クニヨシ 1989年「チャーミングな素顔 池田満寿夫対談—夫 ヤスオ・クニヨシを語る」『ニューヨークの憂愁 国吉康雄 その生涯と芸術』日本テレビ放送網株式会社
サラ・マゾ・クニヨシ 1990年 「ごあいさつ」、『YASUO KUNIYOSHI ネオ・アメリカン・アーティストの軌跡』福武書店

更新日:2017.07.14
執筆者:江原久美子