#019 片山善博さん
元鳥取県知事
これからの教育に求められること―教育と地方自治
福武教育文化振興財団フォーラム「ここに生きる、ここで創るvol.7――地域からの教育再生」が、2018年1月13日にJunko Fukutake Hallで開催され、片山善博氏(元鳥取県知事)に基調講演をいただきました。
奪いあうように本を読んだことを記憶
皆さま、こんにちは。今日初めて私はこのホールにおじゃまをしました。医学部は以前時々来たことがあります。何となく古い、アンティークな印象をずっと受けていましたが、今日ここに来て、正門入ってすぐ右に、こんなに立派な建物があることに驚かされました。
自己紹介をしますと、生まれは岡山県の、今は岡山市東区瀬戸町になってしまいましたが、岡山県赤磐郡瀬戸町というところでした。山陽本線の鉄道の駅で言うと、万富駅があります。キリンビールの大きな工場が駅の近くにありますが、その北側の方で生まれ育ちまして、今でも実家はそこにありまして、母が元気に暮らしています。私は次男で、兄はこの医学部を出まして、今は旭川荘で小児科の医者をやっています。
家は祖父の代は農家で子どもの時は農業の手伝い、田植えや稲刈りをさせられたというか、しました。両親は共に学校の先生をやっていました。母親は私が生まれる頃には専業主婦になっていましたが、父親はずっと教育に携わっており、途中から岡山県の教育委員会に入りまして、教育行政に携わっていました。最後は岡山県立岡山聾学校の校長でやめて、その後は郷里の瀬戸町で長いこと教育長をやっていました。
教員の家に育ちますと、良いこともありますが、悪いこともあります。新学年が始まりますと、「今度の新たな担任の先生は、お母さんの後輩だからちゃんとしっかりしなきゃだめよ」と言われるのが一番いやでした。そんなのどうでもいいじゃないかと思っていましたが、教育と言いますと子どもの頃のことを思いだします。
良かったなと思うのは、当時は今と違って読書環境がとても貧弱で、地域に公共図書館も本屋さんもなかったわけですが、父親がよく本を買って来てくれたことです。それがとても楽しみで2つ上の兄と本を奪いあうように本を読んだことを記憶しています。
それから当時は、「カバヤ文庫」というのがありました。岡山のカバヤ製菓ですが、そこのキャラメルを買って何枚かシールを集めて送ると、カバヤ文庫の本が届くのです。これはとても楽しみで、私はほとんど、カバヤ文庫の本は読みつくしたような記憶があります。今でも覚えていますが、『耳なし芳一』という本を読んでとても怖くて、その日夜眠れなかったというのも、いまだに鮮明に記憶しております。親がよく読書をすすめてくれて、とにかく本を読みなさいということで、そういう読書環境を家庭で作ってもらっていたということは、今とても感謝をしています。
今日は、これからの教育に求められることということで、地方自治行政に携わってきた者の一人として、教育にどう臨んだか、公的な立場でどう取り組んだかということはもとより、個人的な体験も含めて、私の考えとか経験とかを皆さまにお伝えできればと思います。
学校教育のミッションは何か
教育というのは、国政レベルで教育全体を見通して、これからの日本の教育の方向性とか、教育に日本全体としてどういう資源が必要なのか、ということをにらみながら大きな方針を決めたり、大きな枠組みを作ったり、財源の大枠を確保したりする。これが、国家としての教育行政であります。
一方、実際に子どもたちと向き合うのは、地方自治体です。小中学校、高等学校の公教育に限って言いますと、ほとんどすべてが自治体の仕事になっています。地方自治は、いろんな分野の仕事を受け持っていますが、その中で分けても重要なのが教育というのが私の認識です。ですから、教育というのは地方自治の中の最重要部門。地方自治の中で最重要なのは教育という認識で今日のテーマになるわけです。
まず、地方自治で受け持っている学校教育、公教育のミッションというものを考えてみましょうというのが、最初の私の投げかけです。学校教育のミッションは何か?ミッションというのは、その使命は何かということですが、それをわかりやすく把握するには、その仕事は誰のためなのかを考えるのが一番手っ取り早いと思います。
いろんな考え方があると思いますが、一番大事なのは子どもたちです。ですから、子どもたちのために学校教育はある。その子どもたちが社会に出た時に一人前になる、知的に自立をする。その支援、サポートをするというのが学校教育の重要な役割だと思います。
その学校教育を子どもたちに提供する上では文科省や教育委員会、自治体などさまざまな主体が関係していますが、その中で最も大切な主体はやはり先生だと思います。子どもたちに直接向き合って、子どもたちに日々接する、子どもたちが知的に自立するようにサポートをする、この役割を持っているのは先生です。学校教育において一番重要なのは先生だろうと思います。
今日、先生をめぐる環境についていろいろ議論があります。最近では先生がとても多忙化しています。部活の顧問になると土日の休みもないという先生もいます。部活だけではなくて、今の世の中は、私たちが子どもの頃と比較するとずいぶん変わっていると思います。例えば、不登校の問題、いじめの問題。そういう面だけとっても、先生たちは複雑で難しい課題を抱えています。
そこにもってきて、英語教育、IT教育、いろんなものが新しくかぶさってきています。既存のものをなくして、それに代えて新しくIT教育とか英語教育というのならいいのですが、入れ替えもなしに次々と積み重なるように新しい課題を押し付けられてもいる。
さっき言いました子どもたちの知的自立をサポートする、支援をする先生というのは、本来余裕がないとできないことです。子どもたち一人ひとりに向き合って、子どもたちには個性がありますから、それを見ながらどういう接し方とか、どういうふうな諭し方とか、動機付けをしていくかということを考えなえればならはずですが、なかなかそういう時間的余裕が持てない。
とりわけ私が気になるのは、子どもたちの知的自立をサポートすることについて。例えば「本をよく読もうね」と口で言うのは簡単ですが、言う側の先生方がほとんど本を読んでないのが現状だとすると、あまり説得力も迫力もないわけです。私が子どもの時を思い出すと、学校の先生が、こういう本が面白かった、もちろん大人の本ですが、それを教えてくれる先生がいました。小学生だから読めないですけれども、「へー、本て面白いんだ」と思いますし、いずれ読んでやろうと思いますよね。
自らも向上していくという先生の姿勢が、児童や生徒、高校生から見るととても魅力的だったし、自分も先生を見て、こういう本を読んでみようという動機付けをさせられたということがあります。ということは先生も余裕があって、自己研鑽を積まないといけない。それが問わず語りに子どもたちにも伝わるはずであります。
ところが今、先生が忙しくて消耗して、土日の休みもない、教材作りもなかなかうまく自分の時間をとることができないという現状があるとすると、それは学校の教育現場の環境としてはとてもよくないと思います。
どうしてそうなっているのだろうか、それが今日のポイントです。公教育というのは地方自治体が所管していますので、地方自治そのものの問題です。教育現場の中だけでどうしようこうしようと、教育界の中だけで悩んだり苦しんだりもがいたりしていますが、本当はもっと大きな枠組みで、地方自治全体の中でこの問題を考えなければならないというのが私の認識です。
欠落している教育現場のマネジメント
教育現場の課題はなぜ解決しないのか。結論を言うと、学校教育ではマネジメントが明らかに欠落している、不足しているという認識を持っています。マネジメントとは何かと言いますと、例えば会社、商店を経営していて、お客が多くなると忙しくなります。販売も忙しいし、製造も忙しい。当然、注文が多くなったのだから、社員、スタッフを増やして、お客に提供できるようにする。これがマネジメントです。もし、人手不足で従業員人を増やそうと思っても、新たに人が雇えない場合には、仕事を減らすこともある。これもマネジメントです。
先生の場合だったら、部活もやらないといけないし、不登校の対策もやらないといけないし、いじめの問題も一人一人きめ細かく対応しなくてはいけない。それならスタッフが必要になるので、それを確保する。これが学校教育におけるマネジメントの基本です。
例えば、フィンランドでは、不登校の問題は、日本でいうと心理療法士のような、メンタルケアの専門家をその学校に配置しているそうです。日本は担任の先生が基本的に対応しますが、担任の先生はクラス全体の学力を身に付けさせるというのが使命ですから、不登校の子どもが出たら、教頭のような先生が責任者になって、そのもとに心理療法士、メンタルケアの専門家がその学校に配属されていて、そのチームで不登校の子どもに対するいろんなケアをやっていく。必要なところに専門的なスタッフを置く。これがマネジメントです。
忙しくなってもスタッフ増やせない。それだったら、仕事を減らさなければならない。これもマネジメントです。例えば学校の場合だったら、IT教育、英語教育をやらなくてはいけないのであれば、既存のなかの科目を減らしましょうということをやらなきゃいけない。減らせないのだったらスタッフを増やしてくださいと、これがマネジメント。こういうことを民間企業ではやるわけです。ところが学校現場では、それがうまく機能してないのです。スクールカウンセラーをいれましょうといって、非常勤で週に1日来ますということがありますが、本当にメンタルケアの専門家ですか。先生のOBばかりではないですかということだと、ふさわしいスタッフがちゃんと配置されていることになりませんね。これは本来のマネジメントではない。疑似マネジメントですね。ちゃんとしたマネジメントができてないというのが現在の教育行政であり、教育現場にそれがしわ寄せされているのではないかと思います。
なぜそうなっているかというと、理由はいろいろあります。教育委員会自体の問題、自治体のトップである知事や市町村長の問題、それに予算や教員定数などを決める議会の問題などいろいろあります。ただ、実はそれ以前の問題として、日本の義務教育行政がいびつな体系になっているということも指摘しておかなければなりません。
例えば、教育現場のスタッフを増やす必要があるという課題がありますが、スタッフの人数を決めるのは誰かというと、基本的には文科省です。新しくメンタルケアの専門家を配属しようということは、基本的には国が予算を決めるわけです。問題が発生しているのは学校現場で、その学校現場は誰が経営しているのかというと、岡山市だったら岡山市教育委員会です。岡山市教育委員会がいわば学校の経営者なのだから、その経営者が必要な措置を講じなくてはならないのですが、全体のことを決めるのが国になっていますから、国の方で予算を決めたりスタッフの定数を確保したりしなければ、学校現場全体が動かないという仕組みに基本的にはなっているのですね。
これは経営上というかマネジメントの面で、とってもまずい仕組みです。仕事が増えたから社員を増やさなきゃいけないという時に、会社の社長にそういう権限がありません、取締役会にもありません、誰が決めるんでしょうか、さあ、誰が決めるんでしょうねとなったら会社はうまくいきません。実は今、義務教育の世界はそういう状態になっています。当の文科省も自分で決められない。というのは財務省から予算をもらわないといけないですから。ところが、その財務省は学校の現場とはおよそ縁がありません。その縁がない財務省から、来年度は教員の定数を削減せよなどという話が持ち出される。課題を抱えている現場と重要なことを決めるところが全く乖離しています。そういう問題が教育界には構造的にあります。だから、将来的な方向性としては先生の数を決めたり、スクールカウンセラーではなくて心理療法士を置いたりとか、そういうことをきちんと決める権限ができるだけ現場に近いところに備わってなくてはいけない。国よりも県の教育委員会、県の教育委員会よりも市町村の教育委員会に備わってなくてはいけない。これが教育における地方分権です。それは今すぐ言ってもなかなか実現しませんが、これからの重要課題ということでお話しました。
教育委員会に自覚と気構えがあるのか
しかし、今申し上げた枠組みの中でも、現場に近いところでできることはいろいろある、というのが私の認識です。まず、教育委員会ですが、教育委員会というのは皆さんも聞かれたことがあると思います。すべての都道府県とすべての市町村に教育委員会はあります。どういうイメージをもっておられるかですが、おそらく職員の人たちの集団というように思っている方が多いのはないでしょうか。でも、制度上、教育委員会は、会社でいうと取締役会に相当する組織です。
教育委員会は教育委員と教育長とで構成されています。一般の市町村ですと、一人の教育長と4人の教育委員とで教育委員会という組織を構成しています。会社の取締役会というのは、代表取締役を含めて取締役が何人かいて、それが取締役会という合議制の組織を構成しています。合議制というのはその組織のメンバーが相談をしながら結論を出しましょうという組織です。
学校経営の責任は、その5人の人にあります。会社の経営がうまくいかなくなった時に誰の責任かといえば、取締役会であり、取締役たちです。会社がつぶれたら社員が悪いのではなくて、社長を含めた取締役が悪いんです。
何が言いたいかというと、今、教育委員会があって教育委員がおられますが、自分たちが会社で言えば取締役に相当する役割を担っているという自覚がありますか、ということです。本当に自分たちが学校現場を経営している、何か問題があったら自分たちの責任だという自覚です。学校現場に問題があったら、ちゃんと自分たちで解決しなければならないという自覚と気構えが、教育委員の皆さんにありますかということです。
今、学校現場の課題が解決しない理由は、いろいろあると言いました。構造的な背景、すなわち決める人がはるか遠方にいるとかいろいろありますが、最大の問題は、学校の経営者が経営者としての自覚を持ってない。このことが最大の欠陥ではないか。そこから建て直さないといけないと、私は考えています。
ただ、教育委員さんたちに同情すべき点、同情すべき余地もります。なぜかというと、教育委員会を構成する教育委員は実は非力です。非力というのはどういう意味かというと、課題があっても自ら解決する制度的能力を持ってない。例えば、いじめをなくすには、きちんといじめられている側もいじめている側も、先生が一人一人寄り添って丁寧にみなきゃいけないが、そんな余裕が先生にありません。だったら副担任を付けたらいいですねとか、そういうのがマネジメントですよね。ただ、そうすればいいじゃないかとなっても、市町村の教育委員会にはそれを決める権限がありません。なぜならば、学校の先生の数を大枠で決めるのは文科省、国であって、背後で決めるのは財務省です。それからこんどは県の中で、それぞれの学校に何人の先生を配属するかということを決めるのは、大まかなルールは決まっていますが、具体の人数を決める権限は県の教育委員会が持っています。さらに、市町村の中で教育予算をもっと増やそうとした時、予算案を編成する権限が誰にあるかというと、市町村長にあります。教育委員会として、あの学校にもっと教員や予算を増やしたいなと考えても自分では決められない。市町村の教育委員会には決定権がありません。そういう非力さがあります。同情の余地があるというのはこのことです。
アメリカの教育委員会というのはとてもよくなっていて、予算の編成権を教育委員会が持っています。教育委員会が決められるのです。お金が足りないとどうするかというと、税率を上げます。教育委員会が決めれば、教育税の税率を上げられます。教育予算を確保するために税を課す、課税権を持っているわけです。日本の教育委員会は、アメリカの教育委員会制度に似た仕組みなのですが、大事なところが欠落していて、課税権とか予算編成権とかが備わっていません。
次に首長です。最近の知事や市町村長は教育第一、教育ファーストを掲げる人が多くなりました。けっこうなことだと思います。けっこうなことですが、実が伴っていない首長が多い気がします。一般論ですが、口で教育第一という割には、言っていることとやっていることが違っていて、教育ラーストとは言いませんが、教育セカンドとか、教育サード、そういう傾向も見受けられます。
教員の定数は、児童生徒の数で機械的にほぼ決まります。校長、教頭、40人学級を基本とすれば、クラスがいくつ、担任が何人と決まるわけです。その決まった教員定数については正規の教員を当てられるという財源の裏打ちがしてあります。全国津々浦々、そういう仕組みです。細かいことをいうと、3分の1は文科省が義務教育費国庫負担金として財源を県に渡します。あとの3分の2は総務省から地方交付税交付金として県に交付します。合体して3分の3ですから、どんなに財政が苦しい県であっても、教員はすべて定数の枠内であれば、正規の教員として給料を払うことができます。退職金も払えます。こんな財政的な枠組みになっています。
ところが最近、正規教員が退職した時に、それを非正規で補うという県が増えてきました。それをやっていると非正規の割合がどんどん増えてきます。本来ならば正規の教員が配属されなければならないのに、いつの間にか非正規が増えてしまう。とうとう担任も非正規の教員がやるというような県もあります。
なぜそのようなことをするのかというと、非正規を雇うと正規分との差額が出るんですね。だいたいその差額が600万円だと言われています。平均すると600万円。正規の方が600万円高い、非正規の方が600万円安く雇える。正規を非正規に置き換えると、国に返金もありますが、全部合算してどうなるかというと、県に400万円残るんです。最近どうも公立の小中学校で非正規の教員が増えたという現状はありませんか?
自慢するわけではありませんが、鳥取県はそういうことはありません。むしろ教員の定数より多く配置しています。小学校1年生及び2年生を30人学級にずいぶん前からしたり、中学校1年生は35人だったのを30人にしたりしてきているからです。
教育行政を含めて自治体で最後にものごとを決めるのは議会です。例えば、正規教員を減らして非正規を増やそうという案を県の知事部局で作ったとして、それが予算案とか教職員の定数条例案として議会に提案されますが、それを最終的によしとするか、それとも修正するかは議会の責任です。市町村で言いますと、市町村率の小中学校であっても教員の配置を決めるのは県教育委員会の仕事ですから、市町村ではなかなか難しいところがありますが、例えば教員の足らないところを市独自の教員を採用することによって補うことはできます。これがマネジメントで、市町村教育委員会単位のマネジメントです。こんなことがあってもいいと思います。もちろん多少のお金がかかりますが。そういうことを決めるのは、今度は市町村議会です。
日本の地方議会は、この会場に現職の議員の方もおられるので少々言いにくいところもありますが、執行部の話はよく聞きます。また、議場で自分の考えを主張することにも熱心です。ただ、市民の皆さんの意見をちゃんと聞いた上でものごとを判断するというのは、とても苦手です。
アメリカの自治体議会に行きますと、議場で必ず市民の意見を聞きます。そこにはいろんな意見が出てきます。市民が一人一人意見を述べるのが通常ですが、例えばNPOで活動しているような人が意見を述べることも珍しくありません。広く市民の意見を聞くことが実は議会の大切な仕事なのですね。その上で、議会として判断するわけです。アメリカと日本では地方教育行政のシステムに違いがあり、それを踏まえた上でこれを日本の地方議会になぞらえるとすると、次のようになります。
例えば議会が予算案の審議をする時に、教育予算のところにさしかかった時に、議会はまず市町村長が提案した予算案を執行部から聞く。併せて予算案に対する市民の意見を聞く。NPOなどから意見があるならそれも聞く。そうした意見を聞いてみると、例えばこういう活動にもっと予算を付けなきゃいけないんじゃないかとか、NPOと教育委員会とのコラボでこんな有効な取り組みができるねなどということに気がつくかもしれない。それなら、そのための予算を増額することにする。もしそれに必要な財源がないなら、多少の増税を決めることもある。そうではなくて、他の別の項目の予算を削ったっていい。これが議会の本来の役割です。ところが、日本の地方議会の皆さんは執行部が提案した予算などの議案は、そのまま無傷でところてん式に通してしまう。これは日本の地方議会の一つの大きな欠陥です。
何のために議会があるかというと、執行部の案をきちんと吟味して、足らなければ増やし、余分なものがあると削る。その過程で市民の意見、学校現場の意見などを聞いた上で、判断をするというのが議会の本来の役割のはずです。現実には、市長が提案した議案を丸のみして全部通してあげるのが自分たち与党議員の役割だという議員が多いのですが、これは全く勘違いであり、間違いです。
議会は、教育委員の品質管理を
もう一つ、議会に望みたいのは、教育委員の皆さんの品質管理。これができていません。先ほどふれたように、教育委員のみなさんに学校の経営者としての自覚がありますか。学校現場で問題があった場合に、それは私たち教育委員の責任ですという自覚を持っている、情熱を持っている、責任感を持っている人を教育委員にしてもらわないといけないのに、教育委員の選任に当たって議会はそんな吟味をしていません。ほとんど全ての議会は、市町村長が教育委員の選任について提案したら、何の審議もしないでそのまま通してしまいます。百聞は一見に如かずで、是非一度、教育委員の選任議案が議会に提出された時に、議会の傍聴に行ってみてください。次の教育委員に、誰々さんを任命したいという議案が出てきますと、議長が「この件については常任委員会審議を省略して、ただちに採決することについて異議ありませんか」と尋ねる。これに対して議場から「異議なし」の発言があり、再び議長が「それでは採決に移ります。賛成の諸君はご起立願います」と発言し、それを受けて議員が全員起立して、それで終わりです。提案された人が教育委員としてふさわしいかどうかなど、品質管理を何にもしてないんですね。せめて「あなたは学校教育に情熱はありますか。あなたは教育委員として活動するだけの時間的余裕はありますか」という程度のことは尋ねてほしいです。何にも吟味しないで右から左に通すものだから、教育委員に就く人も全く自覚がない。頼まれてなってやるというぐらいの認識なのではないでしょうか。そんなことだから、学校現場で何か問題が起きても、「私の責任ではありません。私はよくわかりません」などと、自覚のない教育委員で構成される教育委員会になっているのではないでしょうか。だとすると、その責任はそうした教育委員を最終的に承認した議会にあるということです。議会にはもう少し教育委員の品質管理をしてもらわなければならない。そうでなければ、いつまでたっても日本の教育はよくならないというのが私の認識です。
最後に、私がアメリカで見た教育で自治を実践する例をお話します。アメリカの教育委員会議に行ってみると、表現は悪以下もしれませんが、とても面白いです。日本でも教育委員会の会議があります。公開が原則ですから、教育委員会議も傍聴してみてください。アメリカの教育委員会議は、みんな是非来てくださいと市民に参加を呼びかけます。教育委員たちは、自分たちが審議する際に、必ず市民をはじめとするいろんな人の意見を聞きます。例えば、学校図書館の司書さんが出てきて、もうちょっと人を増やしてくださいという場面もありました。また、ハイスクールの生徒がやって来て「私たちは音楽クラブのメンバーです。楽器が古くなったので買い替えてもらえませんか」などと陳情する。教育委員たちが「どんな音楽をやっているのですか」「今度ここで演奏してもらえませんか」と言うことになり、後日実際に教育委員会議の場で演奏し、その上で音楽クラブの楽器の更新経費が予算化されたようです。生徒たちは自分たちが働きかけて、自分たちがイニシアティブをとって、それが実現するという、成功体験をもつ。これが地方自治です。
自分たちの発言、自分たちの声で地方の行政を変えていける。何を言っても無駄だ、私たちが何を言ってもどうせ年寄りのことしかやらないんだからというような無力感に覆われたら地方自治は窒息します。子どもや生徒であっても、自分たちが働きかけたら世の中が変わるんだというようなことを、教育委員会議が実践しているわけなんですね。地方議会も教育委員会も、いろんな意見を取り入れながら一つ一つの議案を丁寧に吟味して決定する。そうしたやり方にすれば、地域もそこに住む人の心もずいぶん変わるでしょうし、それこそが地方自治の実践ということです。
例えば、学校とコラボするNPOの皆さんが、地方議会や教育委員会議に出て、「私たちこんなことをやっています。こんなことをやりたいが、そのためには予算が必要です。それを配慮してもらえませんか」などと発言できる場があれば、どうでしょうか。それを他の人も聞くし、マスコミも聞いているとすれば、ずいぶん地域は変わってくるのではないかという気がします。アメリカに行きますと、地方議会もそうですが、教育委員会議でも、いろんな人が出てきて発言しています。例えば、マイノリティーの子どもたちの教育支援をやっているNPOが出て来る。「私たちはあえて補助金なんか求めませんが、私たちがこんなことをやっているということを多くの皆さんに知ってもらいたい。できれば私たちの活動に協力してください」というようなことを議会で訴えるんですね。そうすると、それがCATVなどで市民に広く伝わって、それなら私も協力しようかと、議会の議員も頼まれてはないけれどもこういうのは必要だからと予算をちゃんとつけようかということになって輪が広がっていく。議会や教育委員会議の場が市民の広場になっている、という印象があります。日本もぜひそうなってほしいなと思います。
まだいろいろお話したいことがありますが、後半の部分に私も参加しますので、これくらいにしたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
(2018.01.13)