財団と人

#017 芸術文化と地域づくり

松浦俊明理事長就任記念[対談]

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  • 2024.03.13

文化芸術を通じた社会課題の解決が財団の存在意義そのもの

公益財団法人福武教育文化振興財団 理事長 松浦俊明
公益財団法人大原美術館 理事長 大原あかね

故福武純子に代わり2017年6月の理事会で松浦俊明が理事長に就任しました。就任を記念して、昨年公益財団法人大原美術館の理事長に就任した大原あかね氏と、芸術文化と地域づくりについて語り合っていただきました。

松浦 6月から理事長に就任し、財団の方向性というところも含め、岡山の未来について考えているところです。京都で育って、岡山に戻って来られて、岡山を良くしていこうと活動されている大原あかねさんに、勝手にですが、親近感を感じています。

大原 ご出身はどちらですか。

松浦 名古屋です。2014年に岡山来まして、2015年から副理事長として財団に関わっています。

大原 私も理事長になって1年ですから、自分が何かをやってということはなく、先代まで、また館の職員たちが今まで大事にしてきたものをそのまま大切に、今つないでいっているのが現状です。

大原美術館のはじまりは、やはり大原孫三郎と児島虎次郎です。絵の勉強をしたくて、ヨーロッパに行きたかった虎次郎、その背中を押すように孫三郎は奨学金を出しました。その時、日本の人たちがその当時のヨーロッパの絵画を全然見る機会がなく、その絵画を見ることがどれほど日本の人たちのためになるか、どれほど日本の人たちが喜ぶか、ということを虎次郎は、孫三郎に伝えていました。孫三郎が資金援助をして、虎次郎はモネやマティスに直接交渉をしに行きました。そのことを考えると、大原は常に今、周りにいる人たちに何が大事なのか、今周りの人たちに私たちは何ができるかということを大切にするところからスタートした美術館だと思っています。

講演などでお話をさせていただくときに、よく取り上げる話があります。第2次世界大戦中、大原美術館は表立って開館はしてなかったけれど、お客さまは常に受け入れ続けてしました。当時、美術館を守っていた總一郎が後のエッセイに「特攻隊として敵の機に飛び込まなくてはいけない。そういう若き特攻隊の人たちが、故郷で最期に過ごす場所として大原に来ていた。敵国の絵に囲まれて最期の時をその人たちは過ごした。そういったことを戦後思い起こすと、複雑な気持ちになる」と書き残しています。それでもその人たちにとって、大原で過ごすということが非常に意味があり、第2次大戦中でも私たちはお客さまを迎え入れたということは、私たちがそこにいて、そこの門を開けることが意味がある、大切なことだと思って開け続けてきたという歴史が、私の背中を押すわけです。

これから私が何をしなければいけないかというと、大原美術館がある、ということが人々の勇気というか元気の素になる、そんな美術館であり続けることです。今(その時に)大切なものを常に提示し、それに対して大原美術館として真摯に取り組むということは、これからもやっていかないといけないことだと思っています。

創立80周年に掲げた5つのミッションを…大原

松浦 大原美術館を見学させていただいて、新しい取り組みもされていますが、ここは虎次郎が集めた作品、ここは誰々が集めた作品というように展示の内容や展示品は変わらないという話も伺いました。大原さんの中では、変わらないところと変わるところの基準は何ですか?

大原 「そもそも」というものは大事だと思っています。大原美術館は創立80周年のときに使命宣言として5つのミッションを作りました。アートとアーティストに対する使命、あらゆる「鑑賞者」に対する使命、子どもたちに対する使命、地域に対する使命、日本と世界に対する使命です。このミッションに沿って活動をしていく限り大原の変わらない筋があると思っています。社会情勢が変わる中で、継続していくことはすごく大事で難しいです。その時の指標になるものが使命宣言です。

85年以上にわたり美術館をやってきた中で、「これは変わってないね」というのミッションという形で見えるいうのは、私としてはやりやすいかなと思います。

松浦 大原とはこういうものという教育は受けてこられましたか。大原イズムみたいなものが脈々と受け継がれているような気がするのですが・・・

大原 それがですね、大原家は家訓を持たないのが大原家と言われているくらい、家訓がないんです。大原家とはどういうものかと代々いわれているものが、そもそもありません。

私には姉妹はいますが、兄弟がいなくて、女性が次を継ぐということが明らかになっていました。今まで男性が継いできた中で、女性が継ぐ、継ぐ女性を育てるということで、父も母もすごく苦労したと思います。母は女性である私が継ぐために何を教えたらいいかということをすごく一生懸命教えてくれたし、父は倉敷や岡山の人たちに対して、女性が継ぐんだということが当たり前になるように土壌を耕してくれました。言葉でこうだとか言われてはいないけれど、日常生活の中で両親は気を使ってくれていたでしょうし、年齢を重ねるにしたがってだんだん実感してきました。

今の立場になる前後ぐらいから外でお話をするような機会を頂戴すると、自然に大原家の勉強をするようになって、そうすると私の知らなかった大原のいろいろな歴史が見えてきて、私に今大原を語らせています。具体的にこれだからとか、これを守らなきゃとか、この事業をしないと大原ではないというのはないです。大原って面白いなあって思うところです。

松浦 ある意味、我が家もそうかもしれないです。福武總一郎は伯父にあたりますが、小さい頃から何かを教えられるということがあったわけでもありません。かなり自由に育った中で、突然、岡山に来て財団の仕事を始めたところがあります。今まで福武家として岡山でやってきたことを知りつつも、個人的にはその色には染まりたくないという思いも一方では持っています。今まで育ってきた自分と、財団の役割を掛け合わせていければいいなと思っています。

大原さんの場合、京都で育ち、10年前から大原の仕事に携わり、2年前から倉敷に暮らされているという経緯をお持ちですが、今思えばこれが大事だったなみたいなことはありますか?

大原 大事だったことはやはり、お盆とお正月に必ず倉敷に帰っていたこと。いろいろなところでお話をしていますが、倉敷の家に帰るときに、必ず「ただいま」と言って帰らされました。「こんにちは」でなくて。倉敷の家から京都の家に帰るときは「行ってきます」と言っていました。

それは私にとっては不思議でした。当時から祖父母もその家に住んでなかったので、誰も住んでいない家に私たちは「ただいま」と言って帰り、そこから「行ってきます」と言って出るということに、ずっと違和感を持っていましたが、それがいつか当たり前になり、そして今は、倉敷がふるさとだと自信を持って言うことができます。

プロフィールで京都出身と書かれると、「ちゃうちゃう。京都育ちは間違いないけど、私は倉敷出身やし」と生まれも育ちもしてないのに思うんです。それはきっと「ただいま」と言ってお盆と正月、日本で暮らす人間にとって非常に大事な節目のときに、必ず「ただいま」と言って帰る家が倉敷にあったから。その時には必ずお墓参りに行きました。それが私に今、倉敷出身と言わせている土壌になっているのかなという気がします。どうですか、逆に?

松浦 私は完全に「ただいま」は名古屋だったので、家は名古屋にあって、岡山は祖父母が住んでいる田舎、「おばあちゃんのところに行くね」という感覚で盆正月は来ていました。田舎のおばあちゃんちというイメージです。今、名古屋の実家に帰っても「ただいま」という気分でもないので、そういう「ここが家だよ」というふうに育てられたわけではないなとふと思いました。

大原 普通の建築物としての家とか、マンションとかではなく、松浦さんの帰る場所というのが岡山のJunko Fukutake Hallになるのかもしれませんね。

松浦 引っ越しが大好きっ子で、新しい町とか新しい環境とかが大好きなんです。今までも常に新しい環境というのは尻込みすることなくいけていました。岡山に来るのも、故郷感というのはなくて新しい町に行くって感じでした。

父や母たちに、愛着のある土地や残したい家の話を聞いたりすると、それがないのは寂しい気もします。

大原 いや、絶対これからできます。故郷感って、人とのつながりがものすごく大切じゃないですか。お帰りと言ってくれる人がいたりとか。福武教育文化振興財団は、人づくり地域づくりをしてらして、たくさんの人がかかわっています。「理事長、お帰りなさい」と言ってくれる人がたくさんできてくるでしょう。そういった意味では、人とかかわっているお仕事というのはいいですよね。

岡山に行くという決心は、自分では当たり前の流れの延長線上にあったものですか?

岡山には先駆的な活動をしている人たちがたくさん…松浦

松浦 岡山に来てくれないかという話は前々からありましたが、正直言うと、僕が50歳とか、東京でもうひと段落してセカンドライフ的な感じかなと思っていました。まだまだ先かなと思っていましたが、母の体調が悪くなったので、決心がつきました。

大原 東京から見てらした財団活動と実際に岡山に帰って来て、新しく理事長となってご覧になる財団の活動の印象は違いますか?

松浦 福武教育文化振興財団は岡山の活動限定なので、東京で生活していても活動は一切わからないです。直島を拠点にしている福武財団は全国財団で、規模も大きく、瀬戸内国際芸術祭にもかかわっているので、ちょっと知っているという感じでした。
しかし母が福武教育文化振興財団の理事長を務めていたので、岡山の文化や教育などの情報は母から聞いていました。

大原 岡山県全体がより豊かになるように、よりみんなが暮らしやすくなるように教育と文化の活動を応援している財団は、どういうふうに見えていましたか。

松浦 東京にいる頃は全くわからなかったし、岡山に来た当初は活動を見ても、重要性というのはわからなかったですが、見ていくうちに、こういう活動は大事だな、大事な活動はしっかり押さえているんだなと思うようになってきました。かかわってようやくわかってきたので、福武教育文化振興財団にかかわっていない人にとっては、岡山県内であってもあまり認識されていないのではと思いました。
岡山には魅力的で、先駆的な活動をしている人たちがたくさんいるので、その活動をより多くの人に知ってもらいたいです。岡山でも知らない人はいっぱいいると思うので、それをちょっとでも広げる手助けを財団としてやっていきたいなと思っています。

大原 さらにその先に、新理事長が見ている未来というのはありますか?

地域が教育にかかわる環境づくりを…松浦

松浦 僕の個人的な思いですが、子どもが産まれたこともありますが、日本の中でも岡山の教育は魅力的だねと思われるような教育というのはぜひしたいなと思っています。それに何が必要かというのは僕も全然わからないのですが。

日本でも海外でも魅力的な教育活動をしているところはたくさんあるので、そういうところの活動をスタディして、取り込むということを積極的に進めていきたいです。自分たちで一から新しいこと考えて実践していくは難しいので、いろんないいところを取り込んで、最初は中国地方で岡山は一番いい、その後は関西地方では岡山が一番いい、その後は日本というふうになっていければいいなと思っています。

大原 お父さんが転勤になった時に、子どもが一緒に行きたいと言うような場所に岡山がなったらいいなと思っています。

松浦 家族が暮らすということは、学校教育の環境だけではなく、地域が教育にかかわる環境づくりも大事だと思っています。

大原 いいですね。

松浦 岡山は日本の中でも大きい都市ではないし、ちょうどいいサイズだと思っています。日本から見ると異質だけど世界的に見れば当たり前だよねという教育を積極的にどんどん取り入れて、それを受け入れられる土壌になってほしいなと思います。

大原 2007年から2016年まで取り組まれていたオーストラリアのTAFE(オーストラリアの公立キャリアカレッジ)へのプレ体験留学は、とても素晴らしいし事業だと思っていました。学校に行くだけではなくて、自分の技術で食べていけることができるんだよという土壌を、私たちがもっとちゃんと作っていれば、その事業は続いていたのかなと思うと、すごい悔しいです。学校に行くだけが答ではないんだよということを体感して帰って来た子どもたちは強いだろうなと拝見していました。

松浦 教育に携わる人や教育者側にとっても、何でもチャレンジできる環境になればいいなと思っていますが、どうすればよいのか模索中です。

例えば、岡山県は教育で魅力的な県にするんだという方針を立て、舵をガツっと切ってそこに資金や人材を惜しみなく投資し、民間からもどんどんそういう投資も集めるとか。

大原 倉敷は町衆なので、公には頼る前に自分たちでやろうという気質が強くて、だからこそ、そういった気質の人たちがやったものを公がきっちり育てていってもらえるといいですね。気質が違うというのは、ものすごい大切なことで、だからこそいろいろなものが生まれるはずだと思っています。民間が面白いことをやっているのをどうつなげて、公がやりたいというところまでもっていくかということですね。

松浦 最終的には、民間がやって、面白くなったら公にバトンタッチという考えしかないのかなと今は思っています。面白い活動をしているところをどんどん応援して、行政を変えるくらいの力になってほしいなと思いますね。

大原 アーティストたちへの支援というところでは、どうですか?

松浦 財団はアーティストの作品への支援というよりは、その作品がどう地域に影響していくかというところを重要視しています。例えば、アーティストが地域でワークショップをしたり、地域資源とコラボレーションするなど地域に働きかけるところの応援をメインにさせていただいています。財団としては、これまで多くの団体と関わり合って培ってきたノウハウを付加価値として提供し、より地域への影響力や波及効果が期待できる活動に育てていけたらなと思っています。

文化芸術は問題解決をしようとする人の力になる…大原

大原 岡山県内のいろいろな活動を見に行かれてるんですか?

松浦 私は正直、そんなに行けてないですが、職員はいろいろ出て行ってます。それでも、全部はなかなか難しいです。

大原 文化芸術って、具体的に何かに働きかけたり、何かの薬になったりするものではないですが、問題解決をしようとする人の力になるようなものだと思っています。解決しようとしている人たちにとって文化芸術の力は絶対に必要なはずで、そのために、私たち財団は倉敷の地で美術館を守り続けたいと思っています。

松浦 文化芸術を通じた社会課題の解決というのは、財団の存在意義そのものだと思っています。財団が直接、何かをするわけではないのですが、世の中には、文化芸術を通じて課題を解決しようとしている人がたくさんいて、その活動の後押しをするのが財団の役割です。そういう芽がどんどん出てくるような地域になるように、今後も引き続き波及効果のある活動をどんどん応援していきたいです。

人々の日常の中にあるのが地方にある美術館の使命…大原

大原 理事長としてのミッションは?

松浦 財団の活動に関する経験や知識も少ないので、まだ教えられることが多いですが、その中でも、今までの自分の人生の中で培ってきたことを、岡山がよい環境になるために、県民のために活かせていきたいと思います。リーダーとして引っ張っていくというよりは、財団が今までやってきた素晴らしい活動の積み上げをもう少し次世代につなげるような仕組みを作っていきたいです。

大原 私は、「みんなの町にある美術館なんだよ」いうものに大原美術館をしていこうと思っています。大原孫三郎は5年で大原美術館を財団にしました。それは公の(みんなの)ものにしたかった孫三郎の思いだと思うので、それをしっかり引き継いで実現させるのが私の理事長としての使命かなと思っています。

松浦 地域でそれぞれ面白い活動があると思うのですが、財団の助成や表彰を通して、それまでバラバラだったけれども、財団をハブに、大きな活動をしてもらったときには、財団の存在というものを感じます。

大原さんは、どういうときに存在や充実を感じますか。

大原 いろいろ大原でレジデンスをしてもらったアーティストがすごく成長できましたと言ってくれたときや、展示場で夏休みの宿題をしている小学生を見て、この風景があるというのも大原のいいところだなと思ったり、日々の端々で感じています。

この前は、自分の町に帰ったら入院するので、その前にどうしても大原が見たくて来たんですよというお客さんの言葉を聞くと、大原はあってよかったし、これからもそういう人たちのためにも美術館はあり続けないといけないなと思ったり。

人々の日常の中にあるのが地方にある美術館の使命だと思うと、それが大原の意義かなと思いながら活動をしています。

内外の事例を取り込み地域に合うようにアレンジ…松浦

-これから

大原 今ここに大原美術館があるということが、今ここにというのが、倉敷なのか岡山なのか、日本なのか世界なのか、それはその時の社会情勢によってどのワードでもいいと思います。でも、今、大事なものを常に提示し続け、それに対して大原美術館として真摯に取り組むというのは、これからやっていかないといけないことかなと思っています。

松浦 福武教育文化振興財団なので、教育と文化を切り離して考えるのではなく、両面から同じにアプローチして地域を考えていきたいです。岡山の教育文化は魅力的だねと思われるような地域づくり。ゼロから新しいことを考えて活動していくのはハードルが高いので、日本の、海外の良い事例をたくさん見て勉強して、取り込んで、地域に合うようにアレンジしていけばいいと思っています。

(2017.10.16)