財団と人

#006 菅原直樹さん

老いと演劇OiBokkeShi 代表

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  • 2023.03.03

地域で演劇活動をすることによって、演劇の持つ本来の力を感じることができた。

東日本大震災をきっかけに2012年から和気町で暮らし始めた菅原さん。「介護」と「演劇」を結びつけたユニークな活動は和気町で生まれました。「よみちにひはくれない」「老人ハイスクール」の上演や老いと演劇のワークショップなど活動を続け、みえてきたものや手応え、今後の活動についてお話を伺いました。(聞き手:山川隆之=2012年福武文化奨励賞)

山川 演劇活動のきっかけを教えてください。

菅原 もともと中学の頃に映画が好きで脚本を書いたりして、ゆくゆくは映画を作りたいと思っていた。高校に入学した時に映画部がなかったので演劇部に入部。人としゃべるのは苦手な高校生で、引っ込み思案な人間だったので俳優は絶対に無理だろうと思って、裏方で劇作とか演出とか舞台美術とかにかかわれたらいいなと。
高校1年生の秋に顧問の先生が書いた脚本に、ほとんど一言もしゃべらない引きこもりの少年役があった。部員のみんなが「これはお前だお前だ」言って、これなら僕もかろうじてできるかなと、仕方なく舞台に立った。それが僕の演劇の入り口でした。
それがなかったら僕はおそらく演劇にはかかわっていたが、役者はしていなかった。

山川 一言もしゃべらない引きこもりの少年の役が、役者の入り口だったわけですね。大学時代は?

菅原 高校3年生ときに進路を決めないでいたら、顧問の先生が勧めてくれた桜美林大学のオープンキャンパスで平田オリザさんの演劇ワークショップを体験したんです。目から鱗でした。演劇にこんな可能性があるんだってことで、すごい衝撃を受けました。

演劇のあり方の原点は、平田オリザさんのワークショップ

山川 高校でやってた演劇とは全然違う?

菅原 演劇の可能性をとても感じた。オリザさんの演劇のアプローチのしかたが新鮮だった。個人の演技に対してああだこうだと言うんじゃなくて、演技ができない人がいたら周りの環境とか相手役が変わることによって、その人が自然と演技をすることができるというアプローチの仕方だった。それに目から鱗で。うまく舞台の上でしゃべれないのはその人に原因があるんじゃなくて、もしかしたら周りの環境を変えると自然と言葉が出てくるかもしれない。今僕がしている「老いと演劇のワークショップ」で認知症の人とのコミュニケーションにおける演技もそういう感じです。認知症の人にああだこうだと言うのでなくて、周りが合わせるという。

山川 菅原さんの演劇のあり方の原点は、オリザさんのワークショップがあったということですね。

菅原 そうですね、価値観が大きく変わりましたね。

山川 卒業して、就職はどうしたんですか?

菅原 就職はせずに、バイトしながらフリーの役者として小劇場で活動をしていた期間が2年ぐらいあって、それから青年団に入団しました。

山川 すぐには青年団に入らなかった?

菅原 卒業するときは社会に出て働いてみようという気持ちがあったのかもしれない。1年ぐらいバイトを転々としたんですが、やはり演劇をしたいということで演劇活動を再開した。新進気鋭の脚本家の作品に出演できた、とても貴重な経験だったと思います。

山川 平田オリザさんの世界から離れた舞台も経験して。役者としては幅も広がった。

菅原 幅が広がった感じですね。

山川 青年団には何を求めて?

菅原 やはり青年団は環境がいいんですよね。劇場があって、演出部にたくさんの演出家が所属している。オリザさんの芝居に出たいという気持ちもあるんですが、同時代の若手の演出家の人と出会う機会もあるので、青年団はとても魅力的な劇団だと思った。青年団に入団する前に出演した演出家の方々のほとんどが、青年団の演出部の人でした。なので青年団に入団して本格的に演劇の活動をしようかなと思いました。

介護と演劇はものすごく相性がいいと仕事を始めてすぐに感じた

山川 一方で介護の職を選んだきっかけは?

菅原 28歳になる頃だったので、結婚したし、これから演劇が好きだから続けていきたけど、アルバイトを転々としていくのもどうかなと思って、演劇とは別のスキルが必要なんじゃないかなと思ったんです。
これから何をしていくかというときに介護がとても気になった。それは高校2年生の頃に認知症の祖母と共同生活をしたときの、とても奇妙な経験があって・・・例えば、祖母がタンスの中に人がいるとか言ったり、家にいて車の音が聞こえてくると誰かが迎えに来たんじゃないかと思って外に出てしまう・・・それが僕の中では未処理のままあって、職業訓練でホームヘルパー2級の資格をとった。

山川 現場で介護の仕事をするようになり、演劇と介護は近いとか、何かを感じた?

菅原 介護と演劇はものすごく相性がいいんじゃないのかなというのは、働き始めてすぐに感じた。うまく言葉で説明できなかったが、いつか2つを結び付けて活動をしようと思った。そのために介護の世界もよく知っておかなくてはと思って、特別養護老人ホームで働き始めた。子どもが産まれ直後に震災が起きて、そのときにちょっと介護の世界を深く経験してみようと思って、劇団の活動をお休みして介護の仕事をするようになりました。1年ぐらい。

山川 改めて演劇と結びつけた活動を始めたのは、岡山に移住してから?

菅原 岡山に移住して特別養護老人ホームで働き始めて、1年ぐらい経ってからやはり演劇がしたいなという気持ちになった。和気には和気清麻呂座という劇団があるのですが、その方たちと仲良くなって1年間、和気清麻呂座で演劇活動をしてました。演劇をすると地域のつながりもできるので、面白いかなと思って参加してました。今もそのつながりが活きています。認知症徘徊演劇という芝居をしたときも、そこの稽古場を借りることができた。
しかし、自分がやりたい演劇は介護と演劇を結び付けた活動だったので、「老いと演劇 OiBokkeShi」を立ち上げた。

財団の助成申請に採択されて背中を押された感じがした

山川 このタイミングで介護と演劇をジョイント、結び付けた活動の明確なビジョンはできていた?

菅原 手さぐりです。介護と演劇を結び付けて演劇活動をしたいんだという話を同じ移住者の岡野さんに話したら、福武教育文化振興財団の文化活動助成を教えてくれて、申請をしました。

山川 申請をしたときには、まだ具体的な活動、スタートし始めたばかりで。つまり手さぐり状態で申請をして、助成が通って「やらなきゃ」という感じ?

菅原 採択されて背中を押された感じだった。

山川 OiBokkeShの第1作「よみちにひはくれない」は、具体的にどういうねらいの演劇ですか?

菅原 介護と演劇の相性の良さって何だろうと、僕もうまく言葉にできてなかったので、その実感を地域の方々、一般市民の方々に体験してもらおうと思って、老いと演劇のワークショップを作った。それが6月でした。2年前です。そこに岡田忠雄さんというおじいさん(おかじい)が参加してくださった。おかじいは演技が昔から好きで、認知症の奥さんの介護をしていて、まさに老いと演劇を体現している人。この人と芝居を作りたいと思った。
おかじいの家に通うようになって、おかじいと芝居を作りたいと思うしかなくて、どういう芝居を作るかは考えてなかった。とりあえず、おかじいの話を戦争の話から介護の話まで聞いた。介護の話のときに、認知症の奥さんが徘徊をして困ってるという話になった。このあいだは明け方新聞配達員と町内を探し回ったという話をした。そのときに徘徊というのは何だろう、演劇を作りながら徘徊とは何かということを考えることができたらと思った。一般的な演劇は劇場で観客にお客さんに椅子に座ってもらって舞台を鑑賞するという形を取るんだけど、この徘徊演劇に関しては俳優と観客が一緒に町を歩いて舞台を鑑賞するという形式を取ろうと思いました、町歩き演劇ですね。
商店街でやる舞台なので、商店街の人にも参加してもらおうと、時計屋さん、手芸屋さん、それぞれの自分の店で自分の役を演じていただいた。おかじいには自身の境遇に近い、認知症のおばあさんを探す老人の役を演じてもらいました。おかじいは舞台にかける情熱は熱いんですが、セリフを覚える気が一向にない。この人とどうすれば芝居を作れるかなといろいろ考えた。そのときに目を付けたのが、おかじいがいつも同じ話を繰り返す・・・老人特有の習性というか・・・おかじいに台本に書かれているセリフを覚えてもらうんじゃなくて、おかじいの話を台本に組み込もうと思ったんです。おかじいには見事に演じてもらいました。

山川 まさに自然な演技。

菅原 商店街で芝居をすることによって、商店街の方たちに自身の老いや身内の老い、地域の老いを改めて考えるきっかけになったんじゃないかと。商店街で舞台をやることによって、お客さんは何が夢で何が現実かわからなくなってくるんです。通行人が俳優に見えたり、町の音が演劇のBGMに聞こえてきたりする。もしかしたら認知症の人が見ている世界に通じるものなんじゃないかなと。つまり最初は認知症の方の徘徊の捜索で話が始まるんですが、物語が進むにつれてあたかも自分が徘徊しているような気がしてくる。これが認知症徘徊演劇の大きな仕掛けになるんじゃないかと思った。そんなことを意識して作ったわけじゃないんですが。アンケートを読むと、夢と現実の境界がぼんやりしてきたと言われたんで、そういうことなんだと。

山川 「老人ハイスクール」は2作目になるんですね。

菅原 はい、2作目です。

山川 岡山市の旧内山下小学校を舞台に、教室や廊下室などを移動しながらの演劇でした。独特の世界が描かれていて、すごく新鮮だった。2作目は老人施設でのやりとりということですが、2作目は1作目との違いというのは何か?

菅原 2作目は、特別養護老人ホームで働いて考えたことや感じたことを、この作品に詰め込もうと思いました。おかじいとの演劇活動は随分続いてきたので、そこで感じたこと、発見したことも作品につぎ込もうと思った。
おかじいは今年90歳になるんですが、舞台の上で輝くんですね。これは何なんだろうと思って。もしかしたらおかじいというのは舞台の上で青春を生きているんじゃないかと思ったので「老人とハイスクール」です。老人介護施設をテーマにしながら青春を描くことはできないかということを考えた。

その人に合った役割を一緒にみつけること、これはとてもクリエイティブな仕事

山川 お年寄りが、例えば認知症になれば認知症の役もできる、動けなくなれば寝たきりに、死んでしまったら死んだ役ができるということなんですね。

菅原 僕は役割というのがとても重要だなと思っている。おかじいは会ったときから、僕のことを監督と言ってくれる。最近は「わしが尊敬できる監督は今村昌平監督と菅原監督だけ」だと。そんなことを言われると、僕が詐欺をしているみたいな、高度なオレオレ詐欺みたいな、感じになってくるんです。
おかじいから監督と言われたとき、僕は俳優しかやってなかったので、正直とまどった。僕みたいな人間が監督をやっていいんだろうかと。でもこう考えた、おかじいは何らかの役割を求めているんだ。おかじいが俳優という役割を全うするためには、僕は監督をしなきゃいけないんだと。よし、監督を演じようと。
人は何らかの役割を求めるものなんじゃないかと、とてもよく思う。老人ホームのお年寄りも何らかの役割を求めている。今までサラリーマンだったりお母さんだったりクリーニング屋さんだったり、様々な役割を持って生きてきたんですよね。しかし定年退職後、要介護状態になり、老人ホームに入所することになった、役割を持つことができなくなってしまった。やはり人は最後まで何らかの役割を持ちたいんじゃないかと思うわけです。
介護職員の仕事は入浴の介助、食事の介助、排泄の介助と大切な仕事があるんですが、一方で、お年寄りの役割をみつけるのも大切な仕事じゃないかと思う。お年寄りの人生のストーリーに耳を傾むけて、今ある状態を把握して、その人に合った役割を一緒にみつけること、これはとてもクリエイティブな仕事なんです。お年寄りはそれぞれですから、絶対にマニュアル化できないんです。この仕事はどこかしら演出家の仕事に似ている。演出家の仕事はストーリーを読み解き、俳優に役を与え、共演者や舞台装置などの環境を整えて、俳優に伸び伸びと舞台の上で演じてもらうことなんです。だから老人ホームのお年寄りも自分に合った役割を得たとたんに活き活きとされる。介護職員が驚くような身体能力を発揮したり、さらに笑顔を見せてくれたりする。その姿を見るのはやはり介護職員の生きがい、やりがいだと思う。

山川 介護現場でご自身が働いていて、認知症の人を役割として受け入れるというのを、ほかの介護職の人はどう受け止めているんでしょうか?

菅原 僕がやっているワークショップでは、ボケを受け入れる演技というのはベテランの介護職員は自然とやっていることですね。無意識にやっていることを演劇と結び付けてわかりやすく伝えているのかなと思います。
ただ、介護現場もいろいろな介護現場があって、多くの介護現場では効率優先の介護になってしまっているところがあるんですよね。いかに時間内にお年寄りにご飯を食べてもらって、排泄してもらって、入浴してもらって、ということ。介護者都合の介護が行われている。そうなるとどうしてもお年寄りをモノとして扱うような感じになってしまう。そういう介護をしていては介護者は心身ともに疲弊してしまうんじゃないでしょうか。

山川 演劇的手法を取り入れることで、介護現場は変わってきますか?

菅原 芸術全般に言えることだと思うんですが、その人の人生に好奇心が湧くのが、アーティストだと思う。介護現場にそういうふうな視点をもった人たちが登場する、働くことによって、介護の見え方もだんだん変わってきて、介護の楽しさを引き出すことができるんじゃないかと思っています。

介護は本来の楽しくてやりがいのあるもの
それを演劇を通じて発信できたらと

山川 今いろんなところでワークショップをしたり、県外でお話をされたりしています。それぞれの地域とか現場で、菅原さんが伝えたいことを求めている感じを受けますか?

菅原 介護職は3Kといわれて、きつい、きたない、給料が安いとマイナスのイメージがある。介護の仕事をしていると言うと「えらいね」「大変な仕事をしているね」とよく言われる。そういう一面もあるかもしれないが、現場で働いている人は楽しくやりがいを持って働いている人が多いです。本来の介護というのはとても楽しくてやりがいのあるものじゃないかと思う。それを演劇というツールを通じて、世間の方々に発信できたらと思ってます。

山川 地域で芸術活動、文化活動をやっていくことの困難さはあると思いますが、和気を拠点に自分の劇団を主宰して、東京とは違った、いろんな制約とか条件があると思うんですが、そのあたりはあまり意識していませんか?

菅原 劇場が少なかったり、演劇に興味のある人が少なったり、大きなところはその2つですね。それを逆手にとって演劇活動ができればと思ってます。

山川 具体的にはどういうことでしょう?

菅原 たとえば僕の場合、介護と演劇を結び付けたことによって、介護関係者の方とか家族介護者の方とか、介護に興味のある人が演劇ワークショップに来てくれる。今まで演劇をしたことのない人たちが演劇のワークショップを通じて演劇を体験してくれる。演劇ばかりをやってきた僕にとっては新鮮な体験。
東京で活動していたときは、演劇は楽しいからやっているが、社会に役に立たないだろうと思いながらやっていた。介護の現場の人たちと演劇をすると、楽しんでくれるし、演劇ワークショップに参加したことによって何か発見があったとか、これからの仕事に生かせそうですとか言ってくれる。こういった地域で演劇活動をすることによって、演劇が持っていた本来の力を改めて感じることができた。
東京で演劇をやっていた時にまず90歳のおじいさんと演劇をやることはまずないわけです。こっちに来たらそういう方と出会って、演劇の力を感じるわけです。

山川 「老人ハイスクール」のおかじいは、役割をちゃんとしていましたものね。

菅原 セリフを覚えてアクションシーン、喧嘩のシーンもしてくれるわけです。頭を使って体を使って、介護予防にもなっている。演劇の力ってすごいなと。演劇大好きなおかじいが演劇をやることによって、おかじいの調子がよくなっている。

山川 おかじいのご自宅に車で迎えに行って、一緒に演劇をやって送り届ける。まるでデイサービスと一緒?

菅原 やっていることは、ほぼデイサービス。
今年は活動を大きくして、地域全体でできればと思ってます。例えば、デイサービスを開設するというのもあってもいいと思っているが、デイサービスを開設するのは難しいので、演劇の側からアプローチしようかなと思っています。和気町で演劇講座みたいなものを開いて地域の方々に参加してもらって、高齢者の参加もOK。もし要介護状態になっても認知症になっても参加できるような体制を整えれば、もうデイサービスですね。

山川 迎えに行ってそこで1日過ごせる。

菅原 そういうことができたら面白いなと。
ワークショップを通じて演劇の魅力というのを感じて好んで来ていただいたら、介護予防もできると思うし、生きがいを持つこともできる。子どもたちとのふれあいも出て来ると思うので、それが自然な形で、結果的にデイサービス、介護サービスになってたという展開ができたら面白いなと思ってます。

菅原 おかじいは演劇してますが、こちらは演劇やっているのか介護しているのかわからない。

山川 演劇だけで食べていこうという気持ちはありませんか?

菅原 あんまり考えてないです。介護の仕事をしてますが、食べていくために介護の仕事をしているというのはもちろんありますが、介護の現場で働くのは楽しんで。介護の現場で働きながら、前に活動を続けていけたらなと。理想は介護と演劇をしているかわからないような仕事になればいいなと。

山川 岡山の演劇状況、どんなふうに思われますか?

菅原 最近、岡山の演劇関係者の方々と話す機会ができてきて。お互いに、一緒に演劇をしていきたいなと思ってます。
「老人ハイスクール」出演者3名は、岡山の演劇界の方に声をかけて、集まっていただいた。演劇が好きな人同士だから通じ合うものがある。今後は、お互いにいろいろ客演したりとか。

山川 岡山の人たちの反応は、どうですか?

菅原 面白いことに、演劇好きな人ももちろん来てくれるんですが、介護とか医療関係者が見に来てくれて、いろいろ感想を言ってくれるので、僕にとっては新鮮ですね。演劇だけではなくて、福祉の関係の人ともつながりができて、いろいろ広がっている手応えはあります。
東京で演劇をやってたときは、やはり演劇好きな人が多かったので。こういった演劇の作品の場合は、医療関係者、介護関係者、福祉関係者が見に来てくれて感想を言ってくれる。演劇の幅が広がったようで、うれしいですね。

地域の人と一緒に、介護なのか演劇なのかわからないようなものをつくっていきたい

山川 今後のことも含めてなんですが、岡山という地域で介護と演劇を結び付けたもので可能性みたいなものを広げていきたいというのが当面の課題でしょうか?

菅原 可能性を広げていきたいですね。地域の方々と一緒に、介護なのか演劇なのかわからないようなものを作っていきたいですね。おかじいともこれからも演劇活動を続けていきたいと思います。僕は中学校の頃の夢は映画監督だった。おかじいと出会うことができて、監督になることができた。おかじいには命の限り俳優という役割を全うしていただいて、僕はおかじいに与えてもらった役割をがんばって全うできたらなと思ってます。おかじいは舞台の上で死ねたら本望だと言ってるんで。
俳優に定年はない、歩けなくなったら車いすの役、寝たきりになったら寝たきりの役、最後には棺桶に入る役ができるとおかじいは言っている。おかじいに命の限り俳優という役割を全うしてもらうというのが、僕らの一つの目標になってますね。そのために僕は介護福祉士なので、あと看護士さん、お医者さんの劇団員を集めて看取りができるように。

山川 新しい演劇と介護の融合した何かを、岡山から全国に広めていってほしいですね。

菅原 広めていけたらと思います。2月に可児市で開催された世界劇場会議国際フォーラムにパネリストとして参加したが、イギリスの舞台関係者の方も参加していて、福祉とアートの先進的な事例をたくさん紹介していた。
劇場の義務は、すべての人にアートにアクセスしてもらうということなんです。高齢者だったりホームレスの方だったり、障害を持った人に劇場に来てもらうのが一つの義務になっている。毎週水曜は高齢者が劇場に来て何か舞台表現をするという催しだったり、認知症の人にフレンドリーな劇場があったりする。普通のお芝居を認知症の人にもわかりやすいように翻案したお芝居が行われたりする。これから超高齢社会でいろんな先進国で課題となるものなので何か日本独自のものができたらなと思います。

山川 劇場のような、拠点を今後作っていく思いはありますか?

菅原 ゆくゆくは作りたいなと思います。場所を作るのは大変なので、コミュニティを最初に作って、それが定着して場所が作れたらなと思います。その時にどうするかですね、劇場にするか介護施設にするか。