#004 林宗一郎さん
観世流シテ方能楽師/岡山能楽研究会 代表
心を受け継ぐことが伝統だと。
見た目じゃなくて、中身ですね
岡山ゆかりの能「吉備津宮」を復活させ、能をより身近なものにと、精力的に活動する林さん。岡山能楽研究会の代表でもある林宗一郎さんに、復曲への思い、「能」の魅力や伝統文化について松浦俊明副理事長がお話を伺いました。(対談日:2015.10.20)
松浦 「吉備津宮」復曲上演の活動は助成(平成27年度文化活動3か年継続助成)という形で応援させていただきますが、岡山で能をやることになったきっかけを教えてください。
林 私の祖父が、戦後間もない頃から能楽愛好家や岡山在住の玄人、プロの指導に、こちら岡山に来ておりまして、それを受け継いだ父が……そして私もこちらに寄せていただいている次第なんです。
私は母親のお腹の中にいる頃から岡山に来ていて、岡山の皆さまには大変お世話になっています。育ててもらったと言っても過言ではないほど。岡山の土地は私にとってもふるさとのような思い出のある所なんですね。
そういうお世話になった皆さま、支えてくださった土地、岡山という地において何か恩返しができないものかと考えました。岡山という文化力の高い土地でもっと能楽を知ってもらいたいという気持ちが同時に湧き上がったものですから、じゃあ何か能楽でこの感謝の気持ちを表せないものかと思いました。
岡山ゆかりの能といえば、「藤戸」一つ残っているのみだったんです。素晴らしい作品ですが、もっと岡山の地をテーマにしたもの、みんなが知っている作品、つまり桃太郎のもとになったものはないのかなと探した時に、この「吉備津宮」という作品があることを発見しました。じゃあこれを復活させよう。ましてや備中第一の宮の吉備津神社さんゆかりの曲である、岡山にとっても大切な神社、土地神様をテーマにしたものであればなおのこと、これはうってつけじゃないかということで、これを作品にして岡山の皆さんに知っていただく、そしてこれをきっかけに能を知ってもらえたらいいなと思い、始めた次第です。
詞章しか残ってない「吉備津宮」
まっさらな状態からの創造
松浦 「吉備津宮」にはストーリーはあるけれども、曲がなかったところを今回、林さんが復曲されるという…。
林 そうですね。いろんな残り方がお能にはありまして、「吉備津宮」のように舞台の詞章しか残ってないパターン、または詞章と節がついているが、型付け、型は付いていないものなど。「吉備津宮」の場合はまっさらだったわけですね。
松浦 全部自分で創造して考えるんですか?
林 基本的にはまずは自分で作り上げていく。能には完成形というのはないと思いますので、場合によってはそのつど演出やいろんなものが多少変更していくことも考えられると思うんですが、まずは自分の手で作ってみて、そして皆さまからご意見をちょうだいして変わっていく可能性はもちろんあると思います。
古典の作風のままを受け継いでやるべきなのか、現代を生きる役者、私の感覚や、お客さんがどういうところを見たいとか、どういうところがわかりにくとか、そういったところを伝わりやすいように、古典ではないような演出を取り入れるべきか。または取り入れたとしてどこまでそれを、能の範疇で表現する上で許されるのかなというのは思案のしどころですね。なんでもありになってしまうと、これは能ですかとなってしまうので、そこは崩さないというのが大前提なのですが、ではどこまで許されるのか、というのがそこが一番難しいところだと考えています。
松浦 伝統を崩しすぎないけれども広めていく、わかりやすく説明していく方法というのは、どういうことを考えられているんですか?
林 能を学びたい、習いたいという若い方の傾向としては、あえて古い時代のものに逆戻りしてそういうものに触れたい、学びたいという方が多いように思われます。また、教養として学ぶだけでなくて、いわゆる能が持っている本質、テーマというものを、舞台を鑑賞するだけでなく習うことで学びたいという方が多いように思います。
演劇としてエンターテインメントとして、扇を持って舞うとか、謡うだけでなくて、そこに人として何を学ぶことができるかというところを求めて来る人が多いように感じていますので、人前でお話をさせていただく時には能楽がなぜ今必要なのかとか、今の時代に能楽が何を求められているのかということに対して、こちらは何を発信していかなければいけないのかを考え踏まえて、お話しています。
新たな文化を作ろうと
歌舞伎役者と一緒に作品づくりも
松浦 京都をメインに活動されていると思うんですが、こういった岡山で教室を開いたり、ほかの地域でも何かやられたりというのはあるんですか?
林 お稽古、教室は東京や鳥取でもしていますが、舞台の活動というのは京都のみならず東京、名古屋、神戸、大阪、広島、福岡といろんなところを飛び回って出演させていただいています。最近では歌舞伎役者さんなどと一緒に、いわゆるコラボレーションというか、新たな文化を作ろうというもと、歌舞伎役者・能役者が一緒に一つの作品を作って全国ツアーなど一緒にさせていただいている都合上、北海道から南は沖縄まで行かせていただいております。
松浦 歌舞伎・能・狂言の違いを教えてください。
林 まずは能と狂言が全く別のものだと思われる方が時々いらっしゃるんですが、能楽と呼ばれるものでは一つなんですね。能というのは、狂言と狂言の間に演じられる悲劇。狂言は何なんだというと、能と能の間に演じられる喜劇。昔は能と狂言が交互に上演されたわけですが、単純に能も狂言も人間というものをテーマにしています。
ただ、それをどうとらえるかによって能と狂言で大きくストーリーが変わってきます。悲劇とシリアスにとらえるのが能であって、それを面白おかしく描くのが狂言なんですね。その両方ともをわかりやすく演出したものが歌舞伎だと思ってもらったらいいんだと思っています。
舞台の上に歌舞伎の場合は大道具、小道具、書き割りなどたくさんのものがずらっと出て場面がわかりやすくできていると思います。そういう点では能楽と歌舞伎では全く違います。
歌舞伎の場合は、役者を見せる芸能ですね、どっちかというと。能楽はむしろ作品を見せるものです。我々基本的には能面をつけて顔を隠して舞台に上がることもありますが、それも作品を見せるために、人格をすべて打ち消すために能面をつけるわけなんです。
お客様も役者さんを見たければ歌舞伎をご覧いただいてもいいでしょうし、人として何か学びたい時は能楽をご覧になるのも一つの手かもしれないです。
松浦 流派によって違いはありますか。
林 あります。一番古いとされているのは金春流なんです。芸風もどこか古いな~、古い形なんだなと、古代というか、いにしえを感じさせるような芸風がいまだに残っています。それから見ると観世流というのは洗練されてきたというか、磨き上げられてきたなという形を感じます。
流儀の話でいくと、宝生流という流儀は謡いが特に大事にされているというか、謡いにたけた流儀だとされています。京都に家元がいらっしゃる金剛流という流派では、舞金剛というように舞がとっても美しい、舞にたけている流儀であるというふうにたとえられたりします。もちろん流儀の中でも、家という単位に分かれていきますが、やはり家によって全然見せ方というのが、謡い方ひとつにしても舞い方にしても全然違いますし、一つの作品のとらえ方にしても全然変わってくるのが面白いものですね。
舞台は耳をすますとか、
五感で感じ取ってもらいたい
松浦 先日、後楽園で「吉備津宮」のショートステージというか、3分間の舞を見させていただいたんですが、すごくかっこいいと思って。
林 習いませんか?(笑い)
松浦 今後2年間にかけて完成させるとのことですが、ここまでできたから披露しますなど、プランはあるんですか?
林 まずは台本、謡い本を整えることが第一ですので、2年後の上演までに我々の世界の専門用語で「素謡(すうたい)」という言葉があります。これは謡いだけで上演する形式です。お囃子の映像とか舞のそういったことが一切なく、謡うことだけで上演すること形式があるんです。これを「素謡」と言うんですが…正直一番つまらない。僕もお客さんだったら何が面白いと思います。と、言いながらもまずは素謡で上演しようかと思ってます。今それに向けて台本を整えているところなんです。
松浦 その台本ができて、まずは謡いだけでやられて、その後は舞とかをつけていったりとか考えられてはいるんですか?
林 いわゆる節を作調していく中で、ここではこういう型をしようとか、ここでは囃子にこういう演奏をしてもらおうとか、もちろん同時に考えていくんですが、囃子のことはお囃子方に任せていこうと思ってます。とにかく台本ができないことにはお囃子方も作調、演奏が考えられませんので、私がまず謡いを、言葉を整理する、そして節をつける、作調する、まずここが第一ですね。だから私が早くしないといけないのですが…。
松浦 実際にある程度ストーリーがわかったうえで見ると全然違うでしょうね。
林 最近、公演本番の日か別の日に事前講座的な日を設けまして、今度ご覧いただく演目はこうこうこうで、舞台上では起きていて、こういう時はこういうようになっているんですよと説明はさせていただくことが多いですが、やはり能はお客さんが創造する余白を作っておかないといけないので、答えを全部言ってしまうのはまずいわけです。こちらとしてもどこまで言ってしまう、言えばいいのかなという迷いどころ、迷っています。舞台は耳をすますとか、五感で感じ取ってもらうのを望んでいます。
松浦 どこかで聞いた話だと思ったら、現代アートと同じような感じですね。昔から伝統芸能とか、美術もそうですが、見る側にとって、人それぞれに感じるところを残す、余白を残すというのが大事なんですね。
林 そうですね。ピカソの絵を見てもいまだに何のことかわからないのと一緒で、感性が合わないから、どんなに世界的にすばらしい作品だと言われてもわからないことはわからないですし、能楽もわかるとかわからないではなくて、感性で見てもらったらいいと思うんですね。何をやっているかわからないけれども、こうだったんじゃないかな、面白かったなと、それでいいんです。なぜかセリフを全部聞き取ろうとして、当然わからなくて、これは面白くないとなってしまうのが一番こちらとしては残念な結果かなと思います。
風が吹くとか鳥の声が聞こえるとか
そういったものと能楽を融合して
松浦 絵画を見る手法として、いろんな人、子どもたちも含めて見てもらって、どう思うみたいな、この色づかいとか、この部分どう思うみたいな、ちょっとポイントを与えてどう思うかみんなで議論し合って、私はこう思うああ思う、私はなんか悲しいとか楽しいとか、いろんな意見を聞いて絵画を鑑賞する手法があって、それを教育に取り入れようという流れもあるみたいです。能に関しても同じようなアプローチもできるのかなと。能が終わった後にちょっと皆が集まって、やりとりするみたいなのも面白いかもしれないですね。
林 時々、留学生の方、外国の方に能の一場面をご覧いただくという企画をしてます。舞台でのセリフは古い日本語ですからさっぱり聞き取れないけれども、これは反戦をテーマにしているということを伝えておくと、何か感じ取ってくれます。舞いの意味や言葉はわからなかったけれど、世界の平和は誰しも望んでいることですから、外国の方でもそれがわかってもらえて、言葉なんて正直いらないかなとも思います。感性の問題ですね。
絵画にしても彫刻にしても舞台芸術にしても、形として残るもの、残らない舞台芸術がありますが、見ていただく環境というのを大事なものだと思っています。人工的な、真っ白な蛍光灯の下で、素晴らしい絵を「はい、見てください」と見せられても、何がいいかなというのと同じで、お能も、べたっとした照明の下でやっていることが多いですが、あれを変えるだけでもっと作品を活かすようなことになるんじゃないかと思っています。
松浦 たとえば野外とか? 神社仏閣とか?
林 または山を海を背景にしたところとかでもいいと思うんですよ。人工的な舞台や照明を排除したところでやりたいなという気持ちが非常に多いですね。そういう点では、後楽園の能舞台は半屋外にありまして、僕は好きなんですね。風が吹くとか鳥の声が聞こえてくるとか、そういったものと能楽を一つ融合していく、あくまでも人が生きていく中の一部であり、自然の一部であることを屋外を舞台にすると感じさせてくれます。あわただしい日常からちょっと離れて、時の移ろいとか季節の移ろいを感じられるのが屋外の魅力ですね。後楽園の能舞台でも朝から夕方まで舞台に立っていますと、日が差してくる場所で能舞台が変わってくるんですね、不思議ですね。それがまた一つ面白い。
松浦 昔はどういうところで能をやられていたんですか?
林 昔は、舞台はその都度完全に組み立てていたようですし、今みたいなああいう能舞台のような立派なものではなかったのは確かです。下の板と柱と屋根、以上、みたいだったと思いますね。だからはし係という場所も場所に合わせてあっちこっち付けたようでありますし、まして鏡板は江戸時代になってからかな。
松浦 そうなんですか?
林 あれは近年のものなんです。だから昔の舞台は四方吹き抜けだったんです。だから作るのも簡単なんです。基本的にはそういう常に特設舞台というか、組み立て舞台でやっていたようですし、いわゆる寺社仏閣では舞殿ですか、毎年やっていたと予想されます。
自分の生きてきた時代はこうだった
それを残し、次の世代に受け継ぐ
松浦 岡山の後楽園以外ではどういうところでやりたいですか? 野外では。
林 瀬戸大橋を背景に。
松浦 いいですね。瀬戸内海とかきれいですよね、橋とか海とか。
林 それこそ直島とかでもやってみたいです。
松浦 Jホールでもいいですね。
林 そうなんです、ホールは見せ方によっては本当に素晴らしく見える、お能は面白いもので。
松浦 けっこうガラス張りで外の景色も取り入れられているので、今までにないスタイルかもしれないですが、ガラス張りのお能というのは面白いかもしれないですね。音もけっこうきれいに聞こえるので。
林 ほんとに面白くできますよ。やってみたい場所、岡山だったらそれこそ後楽園の庭ですね。庭に池がありましたか?
松浦 ありますね。
林 池の上に舞台を組んで、やってみたいですね。お客さんはどこから見るんだって話しですが。ボートでもこいでもらって周りから見てもらったらいいかなと。昔の御船遊びですよね、高貴な方たちが船を浮かべて歌を詠んで何とかかんとかと。そういうのを再現するのはうってつけの後楽園、いいお庭ですよね。
松浦 最後に、伝統文化とは?
林 古人が、古人というのはいにしえ人ですね、古人が残してくれた気持ちというか、心を受け継ぐことが伝統だと思っています。見た目じゃなくて中身ですね。それが伝統だと思います。みんな能に限らず、上っ面を真似することが伝統だというところも、上っ面だけど、もちろんそこから入っていくんですが、そこで止まってしまって、これが伝統なんだと凝り固まって次に残そうとする人ほど、僕は愚かな人はいないなと思います。そういう人が逆に伝統をダメにしていると僕は思うから、さっさとやめてくれと思う。
松浦 心だけしっかりしたものが受け継がれていったら、型はちょっと違っても心は同じもので、またその時代に合ったものができてきますよね。
林 そうですよね、それで型が変わっていくと、型破りという。
松浦 心を伝えるというのは大変だと思うんですが、何かプランとかありますか?
林 まずは古典のもの、既存のものをちゃんと自分のものにするというのが第一歩ですね。
松浦 ベースを作る。
林 そうですね、その上で自分はどうなのか、自分はこうしたい、または時代はこういうことを求めているというのを足していって、また削って、そして自分の生きてきた時代はこうだったというものを残して死んで、次の世代に受け継ぐ。もちろん昔のことを知っていることは大事ですよね。
松浦 きょうはいろいろありがとうございました。